駿河駿東郡棠(ぐみ)澤郷に下した伝馬の掟書

次に武田氏のこの部類に入る印判状を挙げよう。

(略)

この文書は、甲斐の武田氏から、駿河駿東郡棠(ぐみ)澤郷に下した伝馬の掟書である。棠澤は今の御殿場町の附近の一郷である。伝馬を仕立てしむる証文たる手形に、公用無賃のものは印判を二つ、私用有賃のものは一つ捺して有ること、伝馬は日に無賃のもの四疋充出す事、私用の伝馬賃は一里即ち六町につき一銭たる事、伝馬賃を出さざる者には伝馬を仕立てざる事、密かに伝馬を仕立て賃金を取らざる事、伝馬役を勤むる者の普請役を免除する事、小田原北条氏から伝馬手形を出した者に対しては伝馬を仕立つべき事の七条から成っている。とのことです。

清断奉行とは今川家で訴訟を裁決する任に当たった奉行のこと

尚奉行人の肩書に清断奉行とあるは、注意すべき文言で、当時今川家では訴訟を裁決する任に当たった者をかように呼んでいたのである。訴訟制度の珍しい史料ともなる。かかる奉行の奉じた印判状も多く出たのであろうが、今日残るものは僅かにこの一通に過ぎない。とのことです。

奉書式印判状の定まった一の書式

本書書出しに既に説いた義元の実名を印文とした方形の朱印が捺してある。日附の下と次行に、肩書に清断奉行と記した奉行両名が名判を加えている。かように奉行が差し出す形式になっていて、袖に義元の印がある。之が奉書式印判状の定まった一の書式である。本文書出しに印のあるのは、奉書御教書に、それを奉じて出す者の主人が、袖に花押を加えたのと同じ形式と見るべきである。そこには印判と判形との相違があるのみである。とのことです。

今川家の袖捺印印判状

第二式 袖捺印印判状

これも日附差出所充所が種々変わっている。その相違に依って順次挙げると、先づ、

い式 日附が年月日から成り、充所を具えたもの

この種類の印判状の初見は、〔四八七〕に挙げた天文十八年八月七日附、今川家の印判状である。駿河浅服六郷の中沼上の一郷のみが駿府浅間宮の流鏑銭進納を怠っていたので、神主村岡彦九郎と沼上郷の百姓の訴訟となり、之を義元の奉行が裁定し、百姓をして先規の如く六箇年一度の役銭を進納せしむることとし、その旨を村岡に伝えたのが、この朱印状である。とのことです。

他に類を見ない「奉」を名の肩に付けた文書

又奉者が下附の文字「奉」を名の肩に付けているのは、他に類のない書き方である。芳春院は永禄四年に没した義氏の生母晴氏室(北条氏綱女)の院号であるから、この院に住した僧侶が、義氏の命を承けて朱印状を出していたと思われる。

以上にて、印を日附の行に捺したものを挙げ終えた。とのことです。

古河公方足利義氏の二種の印を重ねて捺した珍しい印判状

〔四ハ六〕もこの部類に入る可き印判状で、天正三年三月十八日、古河公方足利義氏が、福田民部丞に、その勢力範囲内の地域に於いて、荷物五駄の諸役を免除する為に出したもので、日附に義氏の朱印が二つ重ねて捺してある。一つは径一寸一分五厘、正圓三重郭、印文不明のもの、他は方二寸、三重郭、印文「古河」とある。此二種の印を全く重ねて捺したものとして実に珍しい。とのことです。

重郭正圓、上部に鍵形のある上杉家の印

日附の上部に捺した印は、重郭正圓、上部に鍵形の如きものが付き、郭内に「摩利支天、千手、勝軍地蔵」の三名号を配列して、鍵形から下部迄の長さ一寸六分、圓の径は一寸四分ある朱印である。この印は謙信の元亀元年頃の文書に捺したものから始まり、景勝が引継き之を使用している。先に(図版第一四〇)に挙げた文書に捺してある印と共に、捺した文書の最も多く遺っている印である。この両印が上杉家の印の代表的のものと云うべきである。とのことです。