胃腸にげっぷ?

第五類 符 に入ります。

続く、移・牒・(奏)・解とあわせて、かつて本郷和人さんが、放送大学で「胃腸にげっぷ」(移・牒・解・符)と紹介されていたのが耳に残っています(笑)。

符は所管から被管に下す公の文書のこと。上から下に逮(およ)ぶ文書。

太政官 → 八省ならびに大宰府国司

八省  → 諸寮ならびに諸国司

大宰府 → 管内諸国司

国司 → 管内郡司

図版は、太政官 → 治部省 の官符。「者」は、「宣す」に対する結びの句で、「といえり」下に接続して「てへれば」。「省宜承知、依宣行之、符到奉行」はいずれの官符にもある定型文。

印が三顆捺してある。太政官印とあり、外印という。元来紙面の余白にもびっしりと捺されていたものが、このころ(保元二年)には、要所に数顆捺すようにかわったものと思われる。とのことです。

木契も一種の文書

第四類 勅符 に入ります。

勅符は、勅命を急速に大宰府・諸国司などに伝えるために出す文書です。公式令にその書式が飛驛下式として定めてあるとのこと。飛騨?と思ったら飛驛ですね。ひえき、かしきでいいのでしょうか。これに対応して諸国から勅符による指令を仰ぐための文書の書式を飛驛上式という。

勅符の古いものは残っていない。寛永二十年に後光明天皇即位のために固関(こげん、三関を閉すこと)を命ずる書式が唯一のもの。内印が三顆捺してある。三関とは、伊勢鈴鹿、近江逢坂、美濃不破のこと。

類聚三代格ならびに平安時代の公卿の日記などに、勅符のことが散見されている。〔一五〕後白河天皇御譲位勅符は、兵範記のもの。

固関の勅符は、内記が上卿の命を受けて書き、料紙は黄紙を用いた。上卿から蔵人の手を経て奏聞する。御画日御画のことはない。請印すなわち内印を捺して、日附に時刻を附記する。木契というものが伴われる規定であった。使者の下向について勅符と同時に官符もでて、使者に驛鈴を賜った。

木契も一種の文書とみるべきである。一個の木片で、例えば「賜近江國」と上卿が記し、これを二分して、一片を太政官に留め、他の一片をその国に下した。後日、関を開くとき、その使者が太政官に留められた一片を携行し、開関の命令を伝える証拠とした。

木契の形状はいかなるものか、山槐記に前記〔一五〕の際のものが図示されている。実物の古いものはおそらく伝わっていないだろう。前記後光明天皇即位の時に作った木契がいま近衛侯爵家に伝わっている。とのことです。

縹紙、はなだがみ、藍染の和紙

公式令には、前記三種の位記が挙げてあるに過ぎないが、延喜式中務省の条に多く挙げられている。神位位記式、僧綱位記式、僧尼位記式、延暦寺棲山一紀僧位記式、五位以上位記式。

神位位記式。実物伝わる古いものはない。

僧綱位記式。勅書の項で挙げた円珍の智證大師の徽号を諡られたもの。

僧尼位記式。〔一二〕円珍の位記です。僧や尼の位記ということでいいのでしょうか?

延暦寺棲山一紀僧位記式。図版にしめしたもの。

五位以上位記式。〔一三〕藤原公實叙従二位位記。とありますが、正二位では?

 

〔六〕の位記は当時大内記であった小野道風の筆跡である。

〔一一〕は牛巫明神の位記である。上記神位位記式だけれども、実物でも古いものでもないということでしょうか。

五位以上の位記は、平安時代のものは朝野群載などによって知るに過ぎない。実物の伝わる最も古い例、西園寺公名の公名公記の料紙の中に続いである、永享二年(1430)正月六日附のもので、料紙も縹紙(はなだがみ。藍染の和紙)であり延喜式に従っている。

〔一四〕は、毛利元就従五位下に叙したときのもの。料紙は縹紙に似たもの。公卿がならぶなかに、「征夷大将軍従三位権大納言臣(足利)義晴」の名が見えてます。

東京上野の輪王寺には、徳川歴代将軍の賜った位記の実物がたくさん伝わっている。同山内将軍家廟所にもと納まっていたものであるという。これらも大体延喜式に従って作られている。とのことです。

 

天皇御璽の内印のありなし

位記については、

勅授 五位以上

奏授 六位以下

判授 外八位及び内外初位

の三通りの書式が公式令に挙げられている。しかし、奈良時代の位記の実物は伝わっていない。位記の実物は、前記園城寺の開祖円珍の僧位記が最も古いもの。

〔一二〕僧圓珍授傳燈滿位位記

天皇御璽の四字の内印(ないいん。天皇の印章)が五顆捺してある。大きさは方二寸九分(8.787㎝ってところでしょうか)印のなかで最も大きい。篆書。

一般の位記においても五位以上は勅授であったので、おそらく内印が捺してあったと思われる。円珍の僧位の位記で内印の捺してあるものは、その位が五位以上に準ずるものとして取り扱ったものであろう。しかーし。図版に挙げた位記は、〔一二〕の位記より高い位のものなのに、内印がなく、内侍之印が捺してある。なぜでしょうか?

円珍の棲山一紀僧位記

第三類 位記 に入ります。

冒頭、図版の円珍に続燈大法師位を授けたもの。一紀六年を叡山に棲んだので、棲山一紀僧位記という。とのことですが、一紀はいっぱんに十二年のこととのようですが、どうなのでしょうか。ご存じの方、教えてください~。

字面に内侍の印が数顆(か。はんこの数え方)捺してあり、材料は綾織で類稀なもののようです。

御画日、日の字を加えたものから日の数のみへ

図版に挙げた勅書の料紙は白紙で、徽号勅書には白紙が多く、まゝ黄紙を用いている。

御画日は、日の数のみと、日の字までを加えたものがあった。公式令義解には、勅に関しては御画日ならびに御画について記されていない。詔について令義解に御画日ならびに御画のことについて記しているが御画日の両様に関しては記されていない。令集解に引用してある諸説ならびに西宮記北山抄は、詔の御画日は、日の字までを加えたものとしている。北山抄には、詔書勅書ともに御画日を用い、覆奏の文にも「可」の字を書いたとあり、従って平安時代には詔書勅書ともに御画日があり、それが日の字までを加えたものが通例であったのである。

その後御画日が日までと日の数と両様になった。鎌倉時代の末、正慶の改元詔書を大内記が書き誤って日の字まで書いたので儀式が遅れたことが花園院宸記にみえる。これは当時日の字まで宸書せられるのが定めであったことを示している。日の数までの実例は室町時代初期のものにあるから※、日数のみのものが始まったのは、鎌倉時代後、室町時代初期までのころだと思われる。

※前記の如くとありますが、見当たりません(泣)

〔四〕の正親町天皇宣命は、日数のみとなっている。当時は詔書宣命勅書いずれも日数のみを用いるようになってきたものと考えられる。

なお、詔書といえども、重事でないと、御画日も行われず、すべて大内記が記したことが花山院宸記に見えている。徽号勅書のなかにも、まま御画日として宸書をしないものがある。このように事の軽重におって、区別が生じてきたのは、文書作成上の制規を考えるうえで注意すべきことである。とのことです。

「微妙塔下」と宛書を加えて

〔九〕後奈良天皇宸筆諡號勅書

後奈良天皇妙心寺開山慧玄の二百年忌に本有圓成国師諡号を賜ったときのもの。「微妙塔下」と宛書を加えている。この御書礼といい、慧玄を篤く尊崇せられたによるものと思われる。妙心寺に賜る勅書は、これを踏襲し、

〔十〕後西天皇宸筆諡號勅書

でも慧玄三百回忌に、「微妙塔下」と宛書を加えた勅書をだしている。