五位以上でも行上でなければ略名式を用いず

 但し、行上に署することを得ず、既に長官の署卿に准ず、六位の長官も又行上に署するを得、但し略名を用ひず、何となれば令に准ずるに五位以上に、略名之式有りて、判官以下に上に署する(即ち行上の署)の法無きが故なり

義解の続きの部分ですが、要するに五位以上の者は略名の式を用いうることがあり、判官以下の者は行上に署することができなかったのである。

行上に署するとは、〔二六〕のように、日附の下ではなく、日附よりも上部に位署を加えることである。〔二七〕の従五位下行少丞犬養宿禰「須奈保」は、略名式を用い得るのではあるが、名を自署している。少丞すなわち判官であるから、行上に署することを得なかったのである。すなわち五位以上でも行上に署し得なければ、略名の式を用い得なかったとみるべきである。とのことです。

「朝臣」と名を略し姓を書くので、略名式

公式令の移の書式によると、八省の長官たる卿の位署は、本人が姓(朝臣・忌寸など)を書くこととなっている。名を書くべきところ、これを略して姓をかくから、略名式とよぶ。〔二六〕では、卿の位署がなく、大輔が略名式をとり「朝臣」と自署している。

公式令に移に加える長官の署は、卿即ち八省の卿に准ずるとあり、その義解に、長官とは、五位以上の長官、若判官主典五位を帯びれば略名を須(もち)ふとあります。即ち長官・次官の下の判官・主典も五位を帯びれば略名式を用いたのだから、兵部大輔即ち次官たる紀朝臣が略名を用いたのは当然である。

大輔正五位下勲十二等紀「朝臣」(自署)

十二世紀みたいに、十二等紀と呼んじゃいそうですが、「勲十二等・紀朝臣」と切れるんですね。

〔二九〕は案文であり、秦忌寸の忌寸が自署していないが、この下に名を欠いているから正文にはこの忌寸が自署してあったとみるべきである。とのことです。

ことさらに移す

第六類 移 です。

移は直属関係にない官司が取り交わす文書です。義解には、被管の司は直ちに移を出すことはできず、まず所管に解を申して、所管から他司に向かって移を出すべきであると説いている。

〔二六〕兵部省 → 民部省

字面に「兵部之印」が十顆捺してある。書止めには「故移」とある。この二字はどう訓んだか明らかでないが、中世の文書には、「故牒」と書いて「ことさらに牒す」という実例が醍醐寺文書にある。「故移」も同様に訓んだのだろう。

「故移」でなく「以移」の場合。官衙の地位からは相管隷していないが、事柄によって管隷する場合、諸衛及び兵庫寮馬寮等は、兵事に関しては兵部省に管隷するのであるから「以移」を用いる、と公式令に規定してある。

〔二九〕奉写一切経司 → 造東大寺

では、書止めに「以移」を用いている。

符は差出者の位署が日附の前にある

第五図は、大宰府筑前国司に宛てた符。「大宰府之印」が十顆捺してある。藤原佐理の花押があることで貴重。

第六図は、安藝国司高田郡の藤原頼方に宛てた符。「安藝國印」が三顆捺してある。

官司に準ずるところから出した符もある。

〔二二〕は、造東大寺司から写経所領呉原生人等に下したもの。(故、ことさらに。)

西山克さんは、網野善彦さんにこの語を教えられたという。『回想の網野善彦』p.121

〔二三〕は、東大寺から同寺領阿波国新島勝浦牧方の荘園に下したもの。

公卿の家からも符を出している。

〔二四〕は、関白内大臣藤原師通の家の符。

〔二五〕は、藤氏長者藤原忠通の代に、同氏の勧学院から春日若宮の神主を補任するために出したもの。

いずれの符も文書の差出者が位署を加えるところが日附の前になっている。ただし、東南院文書のなかで一通その様式をとっている牒があるが、書き誤りであろう。とのことです。

牒解符の入れ子状の文書

〔二一〕は、民部省から大和国司に宛てたもの。

牒 弘福寺 → 大和国

解 大和国司 → 太政官

符 太政官 → 民部省

符 民部省 → 大和国

下記のように入れ子状になっています。

牒に偁ふ → 将為伽藍田者

解に偁ふ → 望請、官裁、将被裁下者

符に偁ふ → 省宜承知、依宣行之者

       (下巻ではこの前の奉勅依請者)

結びの文句が違っていますが、奉勅依請者は、清貫宣にかかるのではないでしょうか。

字面に内印が十一顆捺してあるとありますが、これも下巻では、十顆になっています。

糸+寄 いろひ、干渉

〔一九〕安藝國高田郡大領を任ずるため安藝國司に下した官符。内印三顆が捺してある。永保三年(1083)六月七日までが官符の文で、奉行以下は国司が應徳二年(1085)二月十六日、「奉行」すなわち官符の趣旨を施行した意味を附記したものである。安藝國印が三顆捺してある。ところが、下巻では四顆捺してあるとかいてあります。どちらでしょうか?所蔵者名も文末でなく文中にあるようです。こまかいところをすいません。

符は所管から被管に下すものだったが、のちにはこの決まりは崩れてきた。〔二〇〕建武二年南禅寺に下したものはその初見である。このような官符には印は捺していない。というが、ここでも下巻に「字面に外印四顆捺してある」とあります。うーむ。

「糸+寄」(いろひ、干渉)

驛鈴には剋という刻みがあった

官符は、太政官内の辨官と史と両人がだすものだった。図版の例では、右小辨平親範と左大史小槻某が官位氏姓名を表しているこれを位署という。

官符のなかでも、詔書頒下の際に下すものは特に重要なものだった。

〔一六〕太政官詔書頒下并謄詔符 は、朱雀天皇太上天皇の尊号を奉ったときのもの。〔一七〕は、官符の初見、天平勝寶二年宮内省に下したもの。〔一八〕は、宇佐使発遣の官符。驛鈴弐口、一口伍剋、一口参剋と、驛鈴の口数と刻数が記してある。どう運用してたのでしょうか。検索してみると、

駅鈴には身分によって利用しうる駅馬の頭数を示した剋(こく)という刻みがあったといい,親王・一位に10剋,二~三位に8剋,四位に6剋,五位に5剋,六~八位に3剋,初位以下に2剋の駅鈴が貸与される出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

ということだそうです。従五位上藤原朝臣克忠と従七位上卜部宿禰方本に5剋と3剋が貸与されたので、あってますね。