征西大将軍宮懐良親王の令旨

(略)

右の文書に御教書とあるは、征西大将軍懐良親王の令旨を指す。令旨に依り恵良惟澄に肥後国守富庄半分地頭職を充行われたが、河尻氏一族が之を惟澄に渡付しないので、同国守護菊池武光が令旨を承り、使節として窪田越中介を遣わし、守護代と共に、下地を惟澄に渡付せしめるためにこの文書を出したのである。とのことです。

差出者が上位のものからの文書を受けて下に施行した文書

第一〇種 施行状・遵行状

以上は文書の差出者がその文書に依って直接意志を伝えているのであるが、差出者が上位の者から送った文書の意を受けて、之を下に施行するために出すものも極めて多い。鎌倉時代に於ける一二の例は既に挙げたが、ここにはその後の実例を示すこととする。とのことです。

朝鮮征伐の際の民兵挑発

やがて翌天正廿年即ち文禄元年起こった朝鮮征伐の際、民兵とも申すべきものを徴発するに、忽ちその効用を発揮したものと思われる。寧ろかような海外に対する一大事を決行する重要な準備であったとも考えらえるであろう。なおこの人払に関する史料は他にもあるが、ここに挙げた事書状程、詳細にその内容を窺うに足るものは無い。当時に於ける文書にはかような史実を闡明することのできる意味で、極めて重要性を持つ史料が少なくない。とのことです。

事書状、または手形の一種

内容が一つ書になっているから事書状と申してもよいであろう。年寄奉行衆から出した手形の一種と見ることもできる。秀吉が人払を行ったのは、天正十八年関東の北条氏討滅に依って、全国がその一手に統御せられて来たのに依るものであって、この人払に依って全国の人口が判明し、その結果が国政の運用に大いに効用をもたらしたことは申す迄もない。とのことです。

天正十九年秀吉の人払令

〔四〇七〕は、天正十九年秀吉が、全国の人払即ち人口調査の命令を発し、安芸広島の毛利氏がこの命を受け、その奉行安国寺恵瓊、佐世元嘉の両人が、更にその人掃に関する細かい規定を出雲富田の城主吉川家の年寄に伝えるために出した文書である。とのことです。

伊那忠次、彦坂元正、大久保長安の手形

〔四〇六〕は、慶長五年十二月十八日、徳川家康の奉行伊那忠次、彦坂元正大久保長安の三人が、遠江中泉八幡社に社領寄進に関して出した手形である。文中之を三判と云っている。なお奉行一人で出している手形もある。とのことです。

増田長盛、石田三成、大谷吉継連署の人馬往来の手形

第九種 手形・証文

先の折紙と大体同じ意味のもので、竪紙若しくは之を竪長に切った紙を料紙に充てて、年寄奉行衆から出しているものがある。之を手形証文類と称している。〔四〇五〕は、天正廿(文禄元)年三月四日、豊臣氏の奉行増田長盛石田三成大谷吉継の三人が、連署で出した人馬往来の手形と称すべきものである。とのことです。