摂政九条兼実の南都寺院復興の願文

次に時代が降って造仏願文の一例として、左の如きものもある。

(略)

この願文は、摂政九条兼実興福寺南円堂を再建し、大仏師康慶をして不空羂索等の仏像を造らしめ、其胎内に仏舎利、書写の経文を納めて供養した時の願文である。料紙は紺紙を用い、罫線を引き、自筆にて金泥を以て書いたものである。当時に於けるかかる願文の標本として貴重なものであり、又兼実の筆跡を見る上にも、なお平氏に依って消滅した南都寺院復興資料としても、極めて重要な史料と申すべきものである。とのことです。

延暦十七年文室長谷外三名連署の願文

なお悲母が生前果たさんとした造仏写経料田施入の遺志に依り、その没後子息等がそれを果たした時の供養願文に〔七一一〕の如きがある。之は延暦十七年八月廿六日、文室長谷外三名連署の願文で、東南院文書の中に伝わるところから、恐らく造仏写経を行い、之を東大寺に安置した時のものであろう。今日伝わるこの種願文の正門としては、恐らく最も古いものと思われる。とのことです。

天長十年九月の御願文の紙継目裏毎の花押は平安時代末期以後のもの

又字面に間隔を置いて手印を加えられた点は、常時通用していた印に近い性質を思わせるが、末尾の起請の詞と相応じて、御願文に記された御意趣を強烈に表明する御手段として、御手印を加えさせられたものと考えることができる。かくこの御願文は、手印の最古のものであり、又その意味を知ることができるものでもあり、之に依って古文書学上実に貴重な資料となる。更に実物を詳しく拝見すると、紙継目裏毎に花押が加えてある。その形様を観ると、遺憾ながら当時のものでは無く、花押が追々用いられた平安時代末期以後のものである。乍然、これに依って後世この御願文が如何に大切に護持して来たかを知ることができる。とのことです。

今日伝わる最古の天長十年の御手印

遥かに時代を遡った願文の一二を示すに、〔七一〇〕の如きがある。これは桓武天皇の皇女伊都内親王が、天長十年九月廿一日御生母藤原平子の御遺志に依り、その菩提を弔うために、興福寺に香燈読経料を納めたまえる時の御願文である。世に橘逸勢の執筆せるものと云われているが、その確証があるわけではない。日附の次に香取鹿島を始め氏神を勧請して、永劫変違なきことを誓わせられた起請文が添っている。この起請の御位署の下に、御名二字があるが、これは御自筆である。なお字面に間隔を置いて右の朱の御手印が二十五顆捺してある。高野山弘法大師の御手印縁起と伝うるものがあるが、之は承和四年の日附であり、これよりも四年古く遡る天長十年のこの御願文にある御手印は、今日に伝わる手印の最古のものである。とのことです。

 

 

 

 

天子とあるのは令義解によるものでことさら在位を強調したためではない

御料紙の切紙は、蓋し吉野山中御艱苦の間に御意のままに之を得させ給わなかったに依るものと拝し奉る。なおこの勅願文を納められたのは、高野山の勢力を頼ませられ、これを招く思し召しのあったことにも依るであろう。日下に天子と、その下に御諱を書かせられ、然も全文宸翰を染めさせられ、御祈請の御熱意の程を拝察するに餘りある。特に天子と書せられたのは、京都を御退きの後は、世に或いは御退位遊ばされたものと思う者があるかと御懸念遊ばされ、殊更その御在位を示させらるるためであると説いた人がある。然し之は大宝令の儀制令義解に、天子の文字は祭祀に称するところとある条を解釈して、神祇に告げらるる時称して天子と為すとあるから、この義解の文に依らせられたものと拝察し奉る。之に依って天皇が、右の如く御懸念あらせられたと推察するのは、蓋しこの御願書の真意を得たものでは無い。かかる御艱苦の間にも古の制規のままに御祈願文を書せられたところに、聖慮を拝し奉るべきである。とのことです。

東寺塔御供養の勅願文と比べ極めて粗末な料紙の高野山鎮守天野社宛後醍醐天皇御願文

次に単に祈請せらるるために出された御願文を挙げるに、次の如きものがある。

(略)

後醍醐天皇は延元元年十二月廿一日、京都を出で廿三日大和吉野に遷幸あらせられ、廿九日この御願文を紀伊高野山鎮守天野社に納めて天下静謐を祈らせられ、御願成就の上は、同社に法楽を供え、密宗興隆のため、同山に行幸せられ、又仏法紹隆のため、寺領を寄進せらるべき思し召しを宣わせられたのである。御料紙は縦五寸五分、横五寸七分の極めて粗末な薄葉の切紙であって、先に記した東寺塔御供養の勅願文とは大きい相違がある。とのことです。

願文は文章道の人が作成し世尊寺家など能書の者が清書する

願文の書式としては、右に挙げた勅願文の如く先づ敬白と書き、次に仏事作善の事々を列挙し、之を終えて行を更めて右云々と願意を詳細に書き、謹みて敬白する意味のことを記して文を終わる。次に日附を書いて、日下に願主が位署を加える。大体かくの如き形式であった。文章は主に漢文体であったが、宣命体を執るものもあり、又仮名で和文に綴るものもあった。和文宣命体の願文を書き流すところから起こったものであろう。

願文は元来鄭重に作成すべき文書であった。儀礼を重んずべきためには、文章道の人が文を作成して、能書の者が之を清書を致す慣例となっている。前記後醍醐天皇の勅願文は、東寶記に依ると、草案は式部大輔菅原長員が作り、清書は世尊寺行房が致した。世尊寺家は此の頃まで代々朝廷のかかる儀礼を重んずべき文書の清書に携わっていたのである。

前記勅願文の日附の中、「廿三」の両字と御諱とは宸翰を染めさせられたものである。とのことです。