2021-10-01から1ヶ月間の記事一覧
定 加納 一當市場越居之輩、分国往還煩有へからす并借銭借米さかり銭、敷地年貢、門なみ (次)諸役免許せしめ訖、譜代相伝の者たりといふとも、違乱すへからさる事 一楽市楽座之上、諸商買すへき事 一をしかひ狼藉喧嘩口論使入へからす并宿をとり非分かくへ…
第二種 禁制・掟書 次にこの書式のものに禁制が多くある。その一二を例示する。 禁制 小坂井 八幡宮 一於當社軍勢濫妨狼藉之事 一林木伐採事 一当宮放火事 右條々、堅令停止訖、若於違犯之輩者、早速可處罪科者也、仍如件、 永禄七年甲子 松蔵 五月 日 家康…
第四式 日下署判下文変形文書 第一種 安堵状・裁許状・御教書 この書式の文書も鎌倉時代から現れている。即ち〔一九六〕に示した如く、既に建仁三年九月四日、北条時政が、信濃国の住人中野五郎と云う者をして、本所領に安堵せしむる為めに出した文書が同様…
過所は、既に二箇所に之を挙げて説いた。公式令にその書式が示してあるが、奈良平安両時代を通じて、その実物の伝わるものを発見し得ない。尤も朝野群載に、その一例が挙げてあるが、之とても書様即ち書式を示したに過ぎない。又右に説いた過所は、諸関を通…
尚お〔一九三〕に挙げた文書は、文保元年六月十九日、藤原政貞と申す人が備前安養寺に掲げた禁制であるが、紙を用いて書き、その書式は先の時政のものと同じである。又〔一九四〕は、遥かに降った元亀三年八月、常陸介某が、摂津天王寺地下に出した、頼子講…
第三種 禁制・過所 更に内容の特殊なものとしては、左の如き禁制がある。 河内國薗光寺者、 鎌倉殿(頼朝)御祈祷所也、於寺并田畠山林等、甲乙人等不可乱入妨之状如件、 文治元年十二月 日 平(時政)(花押) 文治元年十二月、北条時政が河内国薗光寺に出…
足利氏の幕府時代に於ても〔一九〇〕は、康永二(興国四)年十月廿二日、直義が神護寺領丹波吉富庄の相論に関して出した裁許状であるが、前陳の裁許状と同じ書式を具えている。次に〔一九一〕は、応永二十六年九月十二日、将軍足利義持が、北野宮神人の訴訟…
又この式の下知状は、鎌倉幕府の奉行人も出している。〔一八七〕は、正安元年六月七日、侍所が小早川定平と同一正丸頼辨との鎌倉番役に関する相論の裁許状として出したもので、その一例として挙げることができる。又〔一八八〕は、正嘉二年十月十八日大隅国…
第二種 下知状・御教書 施行状計りで無く、訴訟を裁許する為めに出した文書にも此書式を用いている。〔一八六〕は、嘉禎四年十月十九日、六波羅探題が山城松尾社雑掌と地頭大宅光信との同社領丹波雀部庄の年貢以下の事に関する相論に対して下した裁許の文書…
六波羅の施行状は、幕府の下文計りで無く、勅命を伝える文書である綸旨をも施行する為めに出ることもあった。〔一八二〕は、嘉暦三年八月十三日、山城大山崎神人等に八幡宮内殿燈油荏胡麻に対する関所料免除を伝えらるる臨時を施行する為めに出した文書であ…
この施行状の書式を前項のものに比べると、前項のものは差出所が日附の次行にあって、而して上部に書いてあるのに対して、之にはそれが下部に記してある。ここに相違した点が現れているが、之は差出者の位置如何に依って、位署が上下その所を変えたものであ…
第三式 奥下署判下文変形文書 第一種 施行状 石見国永安別符益田庄内小彌富、寸津浦、美磨博田壹町、庄久保畠壹町等地頭職 事、 右、任今年今月三日関東御下文、藤原乙法師丸為彼職、守先例、可致沙汰之状如件 寛元四年十一月廿一日 相模守平朝臣(北条重時…
第二種 禁制 又寺院に対する禁制、寺領安堵の為めに出した例として、〔一七八〕建武二年四月廿五日、因幡国守名和長年が、同国新興寺に下したものの如きがある。 第三種 判物 戦国時代の大名の中にも、この式の文書を出している。〔一七九〕天文十一年四月六…
足利幕府初世に於ては、訴訟の裁許は専ら直義のこの形式の文書で伝え、之を下知状と云っている。尚お之と同種のものを示すと、〔一七四〕の如ものがある。即ち暦応四(興国二)年十月廿三日直義が、備後国浄土寺雑掌祐尊の同国金丸名に関する訴訟を裁許した…
第二式 奥上署判下文変形文書 第一種 下知状・御教書 東寺雑掌光信申播磨国矢野庄例名内那波浦并佐方浦領家職事、 右、彼地者、去正和二年十二月七日、後宇多院御寄附當寺以来、帯文保元年十月日 院庁下文、正中三年三月十八日官符宣、建武三年十二月八日院…
総じて室町時代以後は、上から下に逮ぶ文書で、花押の加えてあるものを御判と云い、又御判物とも称し、極めて内容に特徴のあるものを、この汎称と異った特殊の名称を以て呼ぶのが、一般の傾向であった。そこで部類編に示した如く、鎌倉時代迄は何れも下文と…
然し右は文書の形式に就いて云い得ることであって、その名称の上に於ては、必しも下文とは称していなかった。鎌倉時代に於ては袖判計りのものも、袖判があって下云々と書いているものも、同様に下文と称していた。之は文書の取扱う内容が、両者ともに共通し…
第三種 禁制 又内容の特殊なものとしては、禁制制札にも、この式の文書が用いられている。即ち〔一七一・一七二〕に挙げた文書は、建武三(延元元)年七月廿一日同八月十一日、足利尊氏同直義の出した禁制である。これには上記直義の禁制に見る如く、禁制を…
第二種 判物 この形式の文書は、足利家の将軍并に公方計りで無く、戦国時代に至り諸国の大名も用いるに至った。〔一六九〕に挙げた文書は、天文十八年四月廿二日、周防の大内義隆が、吉川元春の吉川家相続を承認する為めに出したもの、〔一七〇〕は、天文十…
右両様の文書は、細かい書式に於て相違があるが、大体に於ては下云々のなき袖署判の下文であって、即ち共に下云々の袖署判の下文の変形と認むべきである。この両様の書式の中に於て足利氏の幕府になると、袖判を加えて、事書が無くして直に本文を書き始める…
(義満)(花押) 安房守憲方法師法名跡所領等事、任相伝、上椙右京亮憲定可領掌之状如件、 応永二年七月廿四日 この書式の文書は、当時その内容に従って下文即ち安堵下文と称している。この義満の下文と同じ書式のものも、義満の時始まったのでは無く、〔一…
事実前掲頼経の文書に次いで、それと同じ書式で〔一六三〕の如く、文永八年四月廿七日、北条時宗が、武田妙意と申す者を甲斐甘利庄南方地頭代職に補任する為めに出したものがある。 尚お之と大体の書式は同じであるが、始めに何々せしむべきことと云うが如き…
扨て鎌倉時代にはかような守護職補任の下文があったか、今その例が伝わっていないから明かでない。然し袖署判の下文と形式を異にし、ここに挙げたものと同じ形式の文書はある。即ち〔一六二〕に挙げたのはその一例である。坊城女房と申す者が、源実朝の菩提…
第五類 下文変形文書 前述した下知状は、謂わば下文の変形した形式の一種と見ることができる。尚おかように下文が変形して生じたと思われる形式の文書がある。此等を下文変形文書の題目の下に類別する。而してその中を署判の位置に依って細別して説くことと…
下知状は叙上の如く訴訟の裁許状として多く用いられているから、之に依って、訴訟の制度を窺うことができる。殊に鎌倉時代は、庄園の組織が最も複雑化した時であって、本所領家と地頭との間、或は地頭と地頭との間に於て荘園内各般の事柄に関して訴訟の絶間…
従って今日に遺る資料から見るときは、鎌倉幕府の下知状は、平安時代の寺院関係の文書から起ったものと考えられる。然し、これは東大寺に関する平安時代の古文書が、今日極めて多数伝わっている為めに、偶々その多い中にかかる下知状に関するものが遺ってい…
右の諸例を見るに、位署の位置こそ武家の下知状と相違しているが、天喜四年、治暦二年、平治元年の下文は、武家下知状の第一種即ち書出しに「下云々」と無い形式のものに相応しているものと考えられる。かように考えると、武家の下知状の根基となるものは、…
次に〔一六〇〕に挙げた仁安二年九月十二日附、實勝と申す者に、大和佐保田の本免田を預ける為めに出した文書がある。その差出しに位署を加えた僧侶が何寺のものか明かでないが、東大寺文書の中にある点から見て、恐らく同寺に関係のある人であろう。この文…
先に述べた下知状は、悉く鎌倉幕府以来武家に関するもののみであり、今ここに附記した異式の下知状も又武家に関するものであった。然らば下知状は、悉く武家に限るかと云うに、必しも左様では無かった。寺院からも夙(はや)く之を出していた実例がある。 第…
室町幕府奉行以後の下知状は、更に戦国時代諸大名の文書へと移って行かなかった。下知状は奉行衆の下知状の後はそのまま廃れたのであるが、徳川幕府の時代となり、その初期京都所司代が、商人に商売上の特権を許す為めに、若くは禁制に下知状を出している。…