2021-06-01から1ヶ月間の記事一覧

宿紙がとぼしく白紙で代用された口宣案

〔七三〕は、後村上天皇御代正平十九年九月十四日、蔵人頭藤原實秀の奉じた口宣案。薩摩の島津親忠の来附を褒し、これを下野守に任ずるために出したもの。料紙は白紙を用いている。蓋し当時宿紙が乏しくして、白紙を代用せられたものであろう。吉野時代に、…

賀茂社の斎王の宮城内の居場所

次に口宣案の例を示す。 〔七二〕は後醍醐天皇御代、元徳三年四月廿日蔵人頭葉室長光が奉じた口宣案。斎王とは賀茂大神に奉仕する斎王にして、その坐すところは賀茂社の近くにあったが、更に宮城内に便宜な所を点定して、坐ますところと定めた。これを初斎院…

上卿が外記に伝宣し、外記が奉じて出した宣旨

〔七一〕は、上卿から外記に伝宣し、外記が奉じて出した宣旨の一例。前左大臣近衛基嗣は、建武四年(延元二年)四月十六日、関白となったので、この宣旨によって、基嗣を右大臣洞院公賢の上に列せしめられたのである。とのことです。 〔七一〕光厳院宣旨 関…

平安時代の数少ない宣旨の正文

〔六九〕は、鳥羽天皇御代永久三年十月七日の宣旨、上卿から辨官に、辨官から史に宣下して、史が奉じて出した宣旨の一例。この宣旨に依って、東寺の灌頂会を僧綱所に仰せて行わしめ、永代毎年十月十三日を以て式日と為すことを定められたのである。宣旨の正…

伝宣を受くべき者に充てられるようになる口宣・消息

また次のごとき一例もある。 奉入 宣旨 小渓和尚宜特賜佛智大通禅師号事、 右、奉入如件、 六月十三日 權大納言(花押) 大内記局 これは大徳寺の八十六世紹怤(興臨院塔主)に、佛智大通禅師の号を賜った時の消息宣下における上卿の消息である。この消息に…

消息そのものも伝宣を受ける者に下されることがあった

上は口宣案であるが、また消息宣下の間に作る消息そのものも、伝宣を受ける者に下されることがあった。その一二の例を示すに、 献上 宣旨 高野山金剛峯寺衆徒等申請、特蒙 天恩當山根本大塔修造料淀津関米半分、永 代被寄附由、被成下官符事、 右宣旨、可令…

賜号の場合にも消息宣下の場合あり

前述のごとく、叙位任官の場合、消息宣下によって伝宣せられると口宣案そのものが、本人に下るのであった。勅書の項で記した諡号徽号宣下も、陣議と消息宣下と両様あって、消息宣下の場合には、賜号の勅旨を伝えている口宣案が本人に下るものであった。次に…

消息宣下、文書の作成が省略されるわけではない。

この消息宣下の場合、任官叙位の文書として口宣案のみが出るとは限らなかった。消息宣下の場合でも、任官に宣旨が、叙位に位記が出ることもある。 実隆公記明応五年六月五日の条に、前権大納言勧修寺教秀を大臣に准じ、従一位に叙した時の関係文書が写してあ…

陣議によるか、消息宣下をとるか

もっとも消息宣下は任官叙位に限ったことではないが、それが最も多かった。この場合には位記宣旨に代わって、口宣案が用いられたが、やがてこれが詔書勅書によって出される事柄も、消息宣下の略式で行われることになった。 室町時代の中頃においては、事の軽…

職事、上卿、辨官の消息宣下

辨官が勅旨伝宣の命を受けて出す宣旨には、なお一種あり、官宣旨というが類を更めて説くこととする。 口宣、宣旨と称する文書には、叙位任官に関するものが多い。叙位は正月五日に近衛の陣の座において厳かに行われる儀式であって、次第の手続を経て、位階を…

辨官が上卿からの伝宣を受け、出す宣旨

次に辨官において上卿から伝宣を受け、その旨をさらに伝宣する次第を説く。 造東大寺長官右中辨兼中宮大進藤原朝臣為隆 次 官 中 原 朝 臣 義経 判 官 右 少 史 中 原 眞重 主 典 宮 内 少 録 惟 宗 成國 右中辨藤原朝臣為隆伝宣、権中納言藤原朝臣宗忠宣、…

上卿から伝宣をうけた外記局、辨官、内記局

次に上卿から伝宣を受けた外記局、辨官、内記局などは、いかにこれを外に向かって伝達するであろうか。これについて便宜外記局の場合から始めることにする。 外記局に於いて上卿から伝宣を受け、その旨を更に伝達するために出した文書の一例を示すと、 正二…

伝宣を受けた辨官から上卿への請文

伝宣を受けた辨官、外記等は、上卿に対して返事、すなわち請文を出すべき慣例となっている。新任辨官抄に挙げてある辨官から出した請文の書式を示すと、 謹給預 宣旨 内蔵寮申請某事、 右宣旨、可下知之状、謹所請如件、 月 日 右小辨姓名請文 の如きもので…

上卿の奉ずる口宣

なお、上記の例に合わないものとして、伝宣草のなか、内記に下す宣旨の一例に、 応長元年十二月廿九日 宣旨 藤原朝臣合長 宜叙従五位下 権中納言兼右衛門督藤原判奉 のごときがある。これは職事の口宣の書式を具えているが、権中納言兼右衛門督は大宮季衡に…

上卿が伝宣する三つのタイプ

伝宣の手続き上、職事が口宣を上卿に伝える時に、消息を書くことがある。その一例を松木宗綱の日記から示すに、 永正六年八月七日 宣旨 従四位上藤原冬光卿 宜叙正四位下 蔵人頭右近衛権中将藤原實胤奉 これは烏丸冬光を正四位下に叙するために出した職事正…

中納言が右中辨に伝宣

以上は職事から口宣が上卿に伝えられた場合であるが、この口宣の文書が伝えられず、唯詞をもって仰せたときの例としては、実例を挙げがたいが、新任辨官抄に示してある上卿が辨官に伝える場合の書式を挙げると、 献上 或不被注献上二字、 宣旨 内蔵寮申請臨…

口宣ならびに伝宣の消息書状

上卿は職事から勅命を受けると、その事柄によって各々に伝えるのである。 この伝えるときに出す文書は、普通の消息書状の一つの書式を具えたものである。文書の書式種類の点からいえば、ここに説くべき筋合いのものでないけれども、口宣案宣旨の説明上、便宜…

蔵人所の口宣案はたいてい宿紙を用いる

第一九図 蔵人頭中御門経氏奉口宣案 蔵人頭中御門経氏が石清水八幡宮寺修理別当田中堯清を権別当に、法眼和尚位承清を修理別当に任ずる勅旨を表したものである。前述のごとく、口宣は元来上卿に与えるべきものではなく、いわば心覚の控であった。したがって…

口宣、上卿に与えた控えか、懐中に秘めたものか

まず職事が勅旨を伝える場合、これを文書に表したものを口宣書とも称した。実物の伝わる早い時のものはないが、兵範記仁安二年十二月十三日の条にある文書が管見に入った最古のものである。中右記にも口宣という言葉が現れているが、それに当たる文書は同記…

辨官から出す一を宣旨、他を官宣旨と称す

第二種 宣旨 第三種 口宣案 蔵人所の設置があってから、内侍が勅旨を蔵人の職事に伝えた。そして職事から上卿すなわちその日の政事を扱う上首の公卿がこれを受け、上卿がこれを各所に伝えたのである。その伝宣を受けるところは勅旨によって伝える事柄に依り…

女房奉書の前身、内侍宣

第一種 内侍宣 第二種 宣旨 第三種 口宣案 第四種 官宣旨 大宝令後宮職員令に内侍司が挙げてあるがこの司の役員は悉く女性であり、そのかみは尚侍といって二人あり、常時側近に侍り、奏請および宣伝などのことを司っていた。宣伝はすなわち勅旨の伝宣であっ…

宣、宣旨の先蹤、内侍宣

第一類 宣 宣旨 勅旨は詔書、宣命、勅書、勅符、位記によって下に伝えられていた。ところが平安時代に至り、蔵人所の設置のことなどがあり、漸次勅旨伝宣に関する制規のうえにも変化が起こり、文書も変化した。詔書勅書のごとき手段を取らず簡単な手続きによ…

公式令の足らざるところを補う文書

第二部 平安時代以来の公文書 に入ります。 まずは全体から 第一類 宣 宣旨 第二類 家別當宣 第三類 下文 第四類 下知状 第五類 下文変形文書 第六類 雑公文 第一部に記述した公式令にその様式を示してある文書は、律令制度の制定と同時に定められたものであ…

個人の解、啓上と近似した書式

個人から出した解で注意すべきものは、〔六七〕丸部足人解である。極めて鄭重な文言を用い、且つ充所に尊者御足下と書いている。この充所の書きぶりは、当時の私状たる啓状のものと同じである。前項の個人の牒と同様に、個人の解にも啓状と近似した書式を具…

宣命体の解

畫指は無筆の者が行ったものであることは、戸令の明文によって疑うべきもない。しかし鎌倉時代の初期、文治年間のものを最後として、畫指のある文書は、今日遺存していないらしい。この時代から無筆者はいなくなったのかというとそうではない。別の方法が案…

畫指の時代による変化

畫指の方法に二種類がある。一つは上記のもので、もう一つは点の間に線を引いてこれを継いでいるものである。そして左指と書いてある。畫指の規定は戸令にも見えているから、もちろん日本人の発明ではなく、中国の制規にならったものと思われる。唐代の古文…

指を畫いて記と為せよ

第一七図も個人から出した解である。日佐眞月・土師石國ら四人が雑材木を運漕することを命ぜられ、運漕すべき材木と、その運賃として支給された米銭に対する請取状ともいうべき文書である。右云々からは、八月十二日までに記載の数量の材木を樣(てへん)漕し…

官庁に準ずべき所、諸家、私人から出された解

解には、官庁に準ずべき所、諸家、私人から出したものもある。 〔六三〕は、大安寺に於いて盧舎那仏を作る料に丹を申し請うもの。 〔六四〕は、南藤原夫人家から東大寺写経所に、写経の経師の借用を申し請うもの。 〔六五〕は、写経師、中室浄人が、身に過の…

券文は売買当事者で取り交わす証文へと変化

さてこの文書は、京都における家地売買にあたって正式に立てた券文である。地方においては坊令が郷長に代わり、この郷長の解に対し、職判に代わって郡判、国判が加えられて成立するものであった。この規式は大体平安時代中期まで守られていたのであるけれど…

数百年にわたる手継の証文

図版に示した左側の文書は、右の売買券に見えている買主たる源理というものが、売買のあった延喜十二年より七年後の延喜十九年に、同じ家地を息男市童とその母橘美子に譲与したときの証文である。このように家地田畠等を譲与するときに作る証文を処分状とい…