2021-08-01から1ヶ月間の記事一覧

源頼朝の伊勢国波出御厨宛、袖判下文

第五種 武家下文 (花押)(頼朝) 下 伊勢国波出御厨 補任 地頭職事、 (異筆)「左兵衛尉惟宗忠久」 右件所者、故出羽守平信兼党類領也、而信兼依発謀反、令追討畢、仍任先例、為令 勤仕公役、所補地頭職也、早為彼職、可致沙汰之状如件、以下、 元暦二年…

少貳氏の守護所の下文

第四種 大宰府守護所下文 筑前豊前肥前壹岐対馬の守護職を持っていた少貳氏が、その守護所から牒を出していたことは、既に牒の条で記述したところであるが、同じ所からまた下文を出している。〔一二八〕に挙げたものはその一例で、嘉禎四(暦仁元)年十月卅…

北畠顕家、庁宣でなく袖判の下文を出す

なお建武中興以後、陸奥の国守に任ぜられた北畠氏の下文は、右の書式をとっている。すなわち同氏は庁宣を出さず、専ら袖判を加えた下文を出している。これは後項に説く武家の袖判の下文とも同じ書式を具えている。〔一二五〕に挙げたのはその一例で、建武元…

武人の出身で地位が低かったので庁宣でなく下文

要するに国司にあらずして、国務を奉行する即ち領主が、袖判のみを加えた下文が、すでに鎌倉時代の始めに現れているのである。しかしかかる場合、国主たる源惟義が袖判を加えて、守大介の署判無き、すなわち前項にその実例を示した庁宣をなぜ出さなかったか…

国司ではなく国主の袖判の下文

第二種 国領主下文 国司の庁宣に国の領主が袖判を加えたものが現れてから、従来の守大介の署判が全く無くなったわけではない。またその署判が無いものでも、署判だけを闕いた位署は、文書の形式上必ず書いてある。従って国の領主の袖判のみで、守大介の署判…

庁宣(ちょうせん)は、広義の下文扱い

〔一二二〕に挙げたのは、鎌倉時代においても、なお袖判と大介の署判との二つのある例。嘉禎三年五月、長門国主藤原為長が、留守所をして、同国赤間関阿弥陀寺の供田十二町を不断念仏用途に充てしめるために出した庁宣である。 〔一二三〕は、延応元年十一月…

国の知行主が袖判を据える

次に 国司の庁宣にして袖判を加えた文書は、かなり多く伝わっている。管見では〔一二〇〕に挙げた応保二年三月七日附、下野国司から留守所に下した文書が初見である。以後鎌倉時代に入ると、袖判の無いものは稀となり、袖判のあるのが通例となっている。 こ…

最初期の袖署判下文

第三式 袖署判下文 袖署判の下文には、差出所記入式のものは極めて少ないから、便宜非記入式との区別なしに列挙することとした。 第一種 大宰府諸国司庁宣下文 〔一一九〕に挙げたものは、寛治三年九月廿二日、筑前国雑掌に充てて出した下文であって、これが…

署判が日下の場合、日附の次行より謙遜を表す

第二種 武家下文 〔一一六〕は、建久六年正月十一日、北条時政が肥後阿蘇社司神官に下した文書である。これは下署判ではあるが、細かくいえば署判が日附の次行に加えてある。さらに〔一一七〕は、正慶二(元弘三)年閏二月十九日、薩摩守護島津道鑑(貞久)…

奥下署判下文、差出所非記入式に多くみられる

第二式 奥下署判下文 奥署判の下文の部類で、下部に位署を加えたものがあり、これを奥上署判下文に対して奥下署判下文と呼ぶこととする。この式のもので、差出所記入式の部に入る下文が、国衙の留守所、蔵人所、検非違使庁から出していることは既述の如くで…

神領宛なので鄭重な奥上署判の下文

更に遥かに降って、〔一一四〕天文十一年八月廿二日、大宰大貳大内義隆が藤原正廉という者に、安芸国抓爪木八幡社(※)神領を与ふるために下したものである。書出しに、補シと一字が加わっているが、形式はこの下文に属している。単に形式を踏襲して、このこ…

源頼朝の下文の初見

第四種 武家下文 下文が武家の文書の中に、将軍家政所の下文として入っていることは既に記述した通りであるが、奥上署判の下文としても用いられている。〔一一二〕に挙げた文書は、寿永二年十月十日、源頼朝が賀茂神主重保に下した下文で、頼朝の疑わしい下…

平忠盛の奥上署判下文

第三種 庄園預所下文 庄園の預所も、奥上署判の下文を出している。〔一一〇〕に挙げた天承二年四月十六日附文書は、その一例と思われる。日附の次行に位署を加えた備前守平忠盛は、院の御領伊賀国鞆田庄の預所であろう。当時庄内の住民の重なる者を寄人と称…

差出所非記入式下文の種類

差出所非記入式下文も大観してみましょう。 乙式 差出所非記入式下文 第一式 奥上署判下文 第一種 諸国司下文 第二種 諸家下文 第三種 庄園預所下文 第四種 武家下文 第二式 奥下署判下文 第一種 庄園預所下文 第二種 武家下文 第三式 袖署判下文 第一種 大…

差出所記入式下文を大観する

第二種 諸家下文 〔一〇九〕に挙げた文書は、安元二年二月二日、藤氏長者松殿基房が、中臣祐重をして春日若宮社の事を執行せしめるために、春日社司に対して下したものである。先に挙げた勧学院政所下文と同様に、長者宣に依って云々と表している。形式は下…

仰の主、太政入道殿は平清盛

右の国司下文は、国守が在国して出したものか、京都に居って下したものか明らかでない。〔一〇八〕に挙げた文書は、治承元年九月、長門国留守所に充てたものであるから、国司の出した下文と認むべきである。書止めに近い例文に、依太政入道殿仰、下知如件と…

単に下すとのみあるので、署判の位置で分類

乙式 差出所非記入式下文 奥上署判と奥下署判と袖署判がある。 第一式奥上署判下文 第一種諸国司下文 書き出しに単に下すとのみあって、これだけでは何処から下したものか明らかでない。而してその下に表した即ち充所は大山庄下司で、同庄は丹波国にある庄園…

北条氏が専権を振るう様子を古文書から読み解く

この政所下文の様式は、先に順次説いた摂関家等の政所下文のそれを踏襲している。而してこの文書と将軍の地位との関係には、前述したような変遷があったが、更にここに注目すべき事実がある。 その一つは、承久以前の政所の下文は諸種の事務に関して発したけ…

親王将軍は袖判を用いない

次の代の頼家が将軍職に就き、しかも未だ公卿の地位に達しない間は、また頼朝の先例を追って、袖判の下文を発した。而して公卿に列せられるとまた政所下文を発した。この慣例は爾後実朝は言うに及ばず、藤原氏から出でた将軍頼経、頼嗣も同様であった。しか…

源頼朝、征夷大将軍の職を辞す

頼朝は右大将の職は辞していたが、建久三年七月、征夷大将軍に任ぜられ、翌八月五日将軍家政所の吉書始めの式を挙げている。その後は右の図版に示したごとき、将軍家政所下と書出したすなわち、将軍家政所下文を発した。 しかしこの式の政所下文の管見に入っ…

右大将を辞退したので前右大将家政所から下文を出す

源頼朝の出した下文は、右に掲げた建久四年よりも遥かに早く、寿永年間から出したものが伝わっている。早いときのものは、右の図版に見るところとは異なって、後項第三六図に挙げた如く、袖に花押を署して、書出しに単に下と記したものであった。しかるに建…

将軍家政所の下文

に 将軍家政所下文 将軍家政所下 周防国安田保住人 補任下司職事、 藤原為資 右人補任彼職之状所仰 如件、住人宜承知、勿違失 以下 建久四年四月十六日 案主清原(實成) (花押) 令大蔵丞藤原(頼平) (花押) 知家事中原(光家)(花押) 別當前因幡守中…

下すの下に充所が書いてない形式

なお他の諸家の政所下文の例を示すと、〔一〇三〕は、文治三年十月五日、右大臣家藤原實定の政所から賀茂社の祠官賀茂能久をして、丹波私市(きさいち)庄、美作河内庄を父資保の譲与に任せて領知せしむるために下した下文である。下すの下に充所が書いてな…

権中納言(平清盛)家政所の下文

は 諸家政所下文 公卿に列して三位の位階を有する者は、皆家の政所を開設し、ここから下文を出している。右の図版は権中納言平清盛の政所から安芸厳島社の神主佐伯景弘に下し、凡家綱と申す者が御勢をかりるため、その相伝の所領を清盛に寄附したので、家綱…

藤原氏の学校勧学院政所の下文

ろ 勧学院政所下文 〔一〇二〕に挙げたものは、文治二年十二月五日、藤原氏の学校勧学院の政所から、僧尋珍という者をして、大和国石井庄に安堵せしめるために、同国葛下忍海両郡司ならびに石井庄司に向けて下した下文である。勧学院は藤原氏の学校であり、…

花押の裏に実名が書かれている

第六種 諸家下文 い 摂政関白家政所下文 前述のごとく公卿の家には政所を設け、ここにおいて別當以下の家司が家務を執り、その命令を下に伝えるために、政所の下文を出した。これには摂政関白家のものを始めとして、諸家のものが伝わっている。前掲の図版は…

社寺の政所以外の機関から出された下文

以上は社寺の政所から出した形式の下文について記したのであるが、なお社寺に具ってその寺務を執る他の機関からも下文を出している。〔九九〕に挙げたものは、宝治元年八月廿六日、東大寺の年預所から、同寺領美濃国大井庄の前下司奉則という者を庄内から追…

社寺政所の庄官補任の下文と将軍家政所の地頭補任の下文

〔九八〕は承暦三年十一月廿三日、東大寺政所から、大中臣清則という者を、同寺領美濃国大井庄別當職に補任するために下したものである。庄官補任の下文としては早い例である。庄園の本所領家この一部に社寺も入るのであるが、これらと庄官との関係が右のご…

印を捺した政所下文は社寺に限る

〔九七〕は、仁安二年二月延暦寺政所から末寺感神院領丹波国草南條波々伯部村に、年貢徴収使昌玄の入ることを止めて、桓圓という者の沙汰によって、年貢を進納するように命じた下文である。 この政所下文に「延暦寺政所」の五字を印文とした朱印が十六顆捺し…

国司の庁宣と政所下文とが合わさった形式

〔九五〕に挙げたものは、治承五年二月廿日、大神宮司庁から伊勢度会郡内の神領はじめすべての諸荘園等から水手船舶を徴発して、尾張国墨俣に向かわしむることを、同郡内の検非違使に命ずるために出した庁宣と申す文書であって、国司の庁宣と、政所下文とが…