2022-04-01から1ヶ月間の記事一覧

袖加判の奉書に、充所あると無きの二様がある

尚奉書の中には、単に上位に仰ぐ者の意を奉って、その奉った人が差出者としてそこに書き表すものと、更にその上に、袖即ち料紙の右余白の中央に、その上位の者が花押を加えるものとの両様がある。之は上位の者も差出者として紙面に表れ、差出所の一部を構成…

三位以上のものの意を奉って出した御教書

第二 書札様文書 平安時代末期以後 第一類 真筆御消息・御書・御筆御消息・御書 につづく、 第二類 奉書 です。 奉書の中に於いて、三位以上の地位にあるもの、若しくは之に準ずべき者の意を奉って出した文書は、特に之を御教書と称するのが通例であった。し…

天台座主堯尊法親王から長尾景虎へ

尚天台座主にまします法親王の出された御書状の一例を挙げると、〔二六五〕の如きがある。天文廿二年四月廿日堯尊法親王が、越後の長尾景虎に、山門の大講堂造立の勧進に尽力せんことを促さるるために下されたものである。本紙礼紙二枚檀紙にて調えられ、御…

親王から名字附与

尚後征西将軍宮の出された文書に左の如き珍重すべきものがある。 清原良量 元中十一年十二月十九日(御花押) この文書は五条頼治の子息に御名の一字を授けて、良量と称せしめるために下されたものである。即ち名字附与の書き出しで、武家の人々から出したも…

切封の封じ目即ち墨引が消えたもの

料紙は本紙礼紙の二枚から成る。五条家には尚この宮の御消息が多く伝わっているが、大体右の文書と同様の書式であって、中に礼紙に切封を加えさせられたものもある。この御消息も切封があったのであろうが、その封じ目即ち墨引が消えたものであろう。奥に書…

豊後の大友親世が、五条頼治を攻める

元中八年十月九日、豊後の大友親世等は、頼治の居城筑後津江大野を攻めたが、頼治等よく防戦之を撃退しその戦勝を宮の許に注進した。その注進に対してこの御消息を下されたのであるが、戦功を賞せらるると共に、尚見方にして野心を抱くものの処置を親疎の嫌…

後征西大将軍宮の御消息

尚お同じ親王の御消息を図版に示すと次の如きものがある。 (略) この文書は、後征西大将軍宮が、五条頼治の筑後に於ける戦功を賞せらるる為めに賜った御消息である。とのことです。

後征西将軍宮良成親王と相良前頼

更に〔二六四〕は、吉野時代鎮西にあって、官軍を統率せられた後征西将軍宮良成親王が肥後人吉庄の相良前頼の来附を褒せられ、尚お忠貞を抽づべきことを伝えさせられた御書、本紙礼紙の二枚から成り、日附に年号があり、御内々の後書状とは趣を異にしている…

尊澄法親王は還俗して宗良親王に

之が更に大徳寺に下されて、今同寺に伝わっているのである。尊澄法親王は元弘建武一統の後還俗せられて御諱を宗良と改められ、延元以後に於いては、東国地方に下らせられて、勤皇軍を指揮せられた御事蹟は著明であり、その折出された令旨も僅少ながら伝わっ…

後醍醐天皇と大徳寺の開祖妙超

次に〔二六三〕は、元徳元年後醍醐天皇が、大徳寺の開祖妙超に、同寺敷地の一部として善持寺を御寄附せられたが、皇子妙法院尊澄法親王が天台座主にましまし其寺に関係を持たせられていたので、その御寄附のことを御承諾せられし由を、禁裏に申し上げる為に…

正親町天皇と皇子誠仁親王

尚お御消息の文書の一例を挙げる3と〔二六二〕の如きものもある。天正八年閏三月、禁裏よりも御斡旋のことあって織田信長と大坂の本願寺とが和睦をしたが、この時正親町天皇の皇子誠仁親王も御尽力なされ、本願寺光佐に和睦の上は、更に大坂を去って、紀伊国…

入木道(じゅぼくどう)は書道の異称

南山の珍事、即ちかの正平七年御和睦の折、南方に御幸せられた光厳、光明、崇光三院が、大和賀生より河内金剛寺に移られし事、又雀頭即ち筆を進めて、院が御手蹟の上達に如何に図らせられてましますか等の事を尋ねさせ給う為に奉ったものである。院は親王に…

勘を付けた文書、返勘、勘返状

(略) 右の文書は、正平九年、尊円親王が後光厳院に奉った御消息で、その行間に書せられたのは、四月四日附同院の御返事である。行間に返事を書く時には、答えんとする本文の記文の始めにヽ即ち勘を付ける。従ってこの返事を返勘、勘返状とも称している。と…

御差出所に御花王を加える

御本文の書止めに御敬語は無いが御差出所に御花押を加えさせられているのは、御鄭重な御書礼である。法親王は、伏見宮邦輔親王の御子にて、正親町天皇の御猶子にならせられた方である。かかる御関係から右の如き御書礼を取らせられたものと拝し奉る。とのこ…

後陽成天皇の御消息

〔二六一〕は、後陽成天皇が(慶長元年)閏七月十七日、青蓮院尊朝法親王に賜いし御消息である。法親王が送られし源氏物語夢浮橋の巻を請取らせしよしを告げさせられ、且つかの大地震が起こったので、之に関する吉凶の占文を書せられて、之を法親王に送らせ…

正親町天皇の年頭の御賀札

次に〔二六〇〕は、正親町天皇から伏見宮邦房親王に賜いし年頭の御賀札である。恐らく天正初頭のものと拝し奉る。散し書きに遊ばされ御封紙は捻封を加えさせられてある。年頭の御賀札は何れも大体かような御形式をとらせられたのである。とのことです。

当時腰文と呼ばれた書状

散し書きに書せられ、この点では後項に説く女房奉書と同様である。而して本紙礼紙の二枚を以て、切封に封ぜられ、その封の表に充所を書せられ、当時腰文と呼ばれた書状の形式を具えている。御消息も当時の書礼に従わされているのである。とのことです。

将軍義晴に御修法料所の回復を命ずる

この御修法の料所が室町時代に至り、諸国土豪の押領するところとなったが、かの応仁乱中にも不如意ながら廃絶することはなかったのであるが、この天文初頭に至って、この料所からの貢納が全く途絶えるに至った。従ってかかる国家の重き御祈祷の廃れることを…

散し書きの御書

散し書きの御書の例として、前掲のものは、極めて簡単な字配であるが、中には、左の図版に拝し奉るが如き複雑なものもある。 (略) この文書は後奈良天皇が、天文四年十一月将軍足利義晴に賜った宸筆の御消息である。毎年正月八日禁中に於いて、大元帥明王…

中世における勅書

その中にこの宸筆の御書を勅書と申し、又後崇光院の御日記看聞御記にも、禁裏勅書を賜うと記されている。公式令に書式を挙げた勅書とその形式を異にしているこの種御書を、中世に於いては勅書と申し上げたのである。尚おこの御書は、大体印刷の字配の如く、…

後花園天皇宸筆の御書

次に〔二五九〕は後花園天皇が、永享五年十二月十二日、禁裏御料として伝えられた尾張熱田社領を、御父後崇光院に進められる為めに出し給える宸筆の御書である。「室町殿」とあるは将軍足利義教にして、義教の執奏に依ってこの御書を賜ったので、義教が御書…

一介の武人に宸筆を染めて

当時重治の如き他の忠臣にもかかる御書を賜ったものであろうが、今はこの一通が伝わるのみである。一介の武人に特に宸筆を染めてかかる御書を賜わせられたことが、如何に諸士をして感憤奮起せしめたことであろうか。この御書は実に貴重な史料と申すべきであ…

足助重範が、尊治の御字を賜って、重治に。

重治は太平記笠置山合戦の条等に見える足助重範が、元弘一統の折、天皇の御諱の下の御字を賜って改名したものであろう。何年のものか明らかでないが、恐らく延元元年五月叡山に行幸あらせられ、官軍京都に敗れて、叡山又賊軍の攻むるところとなり、官軍の勢…

後醍醐天皇と足助重治

不可准凡々軍勢之間、書賜状者也、 足助重治為一流者之上、元弘笠置以来、忠節異他、於戦陣、 殊可致忠之由、別而召仰也、可被存其旨乎、 この文書は、後醍醐天皇が、足助重治を召させられ、重治が同氏嫡流の者たる上、元弘笠置以来天皇に奉仕せる忠節を賞せ…

建武の擾乱で紛失

この御本文書止めは「何々也」で結ばされてある。この御書は建武の擾乱の時紛失し、後更に宸筆を染めさせられて賜ったものである。もとより日附も御差出所も書かせられない御書式であって、その御書式のままに新に書かせられたものと拝し奉る。とのことです。

花園天皇の帰依篤い道皎

天皇は道皎に御帰依極めて篤く、元亨元年十二月廿五日、これより御法衣を受け、その翌日之に答えさせらるる為めに下された御書が之である。道皎が近日求法の為め入元の途に就き、鎮西に赴くのでその送行の意を述べさせられ、授法に報いさせらるる為めには特…

花園天皇宸筆の御書

昨夜受業之儀、感悦無極、縦雖万里之波濤、同風之旨、何有遠近義、同国師、後日必可有其号、当時非自専、尤以遺恨、併期再会之時者也、 この文書は、花園天皇が山城梅津長福寺の開祖月林道皎に賜った宸筆の御書である。とのことです。

御鄭重な御書礼

御本文書止めに、御諱と恐惶謹言とを以て結ばせられ、且つ日附を加えその下に御諱を書せられた御書式は、いと御鄭重な御書礼を表されたものと拝される。御父に対せらるる文書にして、尚お御請文であるところから、かような御書礼の書式をとらせられたのであ…

花園天皇が御父伏見法皇に奉った御請文

〔二五八〕は、花園天皇が(文保元年)八月十二日、御父伏見法皇に奉った御請文、即ち御返事である。この年八月法皇は御病篤く、御後事を御遺言あらせられ、関白二条道平をして御置文を認めしめ給い、後伏見上皇に賜った。この御置文に依って、播磨国衙領を…

守覚法親王の請文

この御消息にも御本文書止めに「謹言」と結ばれている。守覚法親王は、皇兄にましますので、かかる御書礼をとらせられたものと拝する。この時守覚法親王が、御書を拝受し、之を謝し奉る為に出した御請文が、仁和寺文書の中に伝わっている。部類編に参考とし…