2022-07-01から1ヶ月間の記事一覧

宿紙を用いる摂政の御教書

この時は四条天皇御幼少にましまし、道家が摂政となっていたので、蔵人藤原季頼が道家の仰を奉じて御教書を出したから、綸旨と同様、料紙に宿紙を用いたものと思われる。元来綸旨を以て勅裁あらせらるることが、摂政の御教書に依って伝えらるる時には、之に…

摂政九条道家の御教書

次に〔二九七〕は、〔文暦二年〕七月六日、摂政九条道家が、石清水八幡宮の別当田中宗清に充てた御教書である。石清水八幡宮神人と興福寺衆徒との間に所領に関して相論が起こったが、神人の不満を鎮める為に、前別当竹幸清の社務を止めて、宗清を之に代え、…

差出所の奉は下附、充所の謹奉は上所

〔二九六〕に挙げたものは、関白家藤原忠實の御教書、淡路守に、伊勢公暁勅使禄分料等に関して命を伝えた文書である。書出しに関白殿仰を被るに云々と書くのは綸旨、院宣を被るにと書出すと同様である。差出所に奉と書くは下附、充所に謹奉と書くは上所と云…

御教書が公的性質を帯びるようになってきた

書式がかように私状に基づいた上に、その取り扱う内容も、公に関係したものは少なかったのであろうけれども、平安時代中期以降摂関政治が行われるに至り、之に奉仕する家司の奉じて出す御教書は、次第に公的性質を帯びるようになって来た。この傾向は御教書…

差出者と充所との間に取り交わす書状の書式の規定に従う

奉書は総べて奉仕している者が上の仰を奉って出す文書で、その書式は、奉る者の地位に基づいて定めてあった。綸旨院宣令旨を奉って出す人の地位と充所との関係に依って種々の書式があった。この書式は差出者と充所との間に取り交す書状の書式の規定に従うも…

御教書と区別して綸旨、院宣、令旨

かような間に於いて勅旨院旨を奉じて出すものは、御教書の名称と区別して、特に勅旨を奉じて出すものを綸旨、院旨を奉るものを院宣、又皇族方の御旨を奉じて出すものを令旨と申し上ぐるようになって来たことも既に述べた如くである。とのことです。

三位以上の者の仰せを奉って出す御教書

我が国に於いては、奈良時代から地位の高い者の仰せを教と云い、平安時代中期以降の日記記録を見ると、総べて仰せを奉って出す文書で、地位の高貴な方々の奉書を御教書と申している。而して一般奉書の意味の文書で、御教書と呼ぶものは、前述の如く公卿たる…

親王公主の命令を下に逮ぼすときに用いる文書

本章の初めに記述した如く、かく侍者が仰せを奉って出す文書を御教書若しくは奉書と申している。唐の六典尚書省の条挙ぐるところの上所以逮捕下の文書の一つに教があり、之は親王公主の命令を下に逮ぼすときに用いる文書としてある。とのことです。

殿下の御教書

立ちどころを確認しましょう。 書札様文書(平安時代末期以後) 第二類 奉書 第一式 日下署判奉書 第五種 御教書・奉書 い 摂関家御教書 です。 (略) この文書は、少納言平知信が、関白藤原忠通の仰の旨を奉じ、之を仁和寺御室法主の侍僧に伝えんが為に発…

多く伝わる御領に関する女院の令旨

〔二九四〕は正応二年十二月廿五日、室町院(後堀河天皇皇女)の令旨、〔二九五〕は元中四年二月十四日、新宣陽門院(後村上天皇皇女)の令旨であり、何れも御領若しくはその御施入などに関するもので、かような内容をもった女院の令旨は極めて多く伝わって…

美福門院の令旨

次に女院から同じく令旨が出で、平安時代末期からのものが多数伝わっている。〔二九三〕に挙げたのは〔永暦元年〕十月廿日に、美福門院(鳥羽天皇皇后)が高野山金剛峰寺に一切経を寄進し、其料所ごして施入せられた荒河庄の押妨を止めらるる為に出した令旨…

上杉輝虎宛、延暦寺座主の令旨

〔二九一〕も同じく御室の令旨であり、充所の如何に依って、書止めが種々に書き表してあることに注意すべきである。尚延暦寺座主から出された令旨もある。〔二九二〕はその一例で、永禄六年八月廿七日に、座主応胤法親王が越後の上杉輝虎の武功を賞讃する為…

御室の令旨

更に古い時代からの令旨としては、皇族にして仏門に入らせられ、一山の門主として出されたものも多くある。〔二九〇〕に挙げたのは、貞応三年十月十一日、仁和寺の門主入道道助親王の令旨で、当時、之を御室の令旨と呼んでいる。とのことです。

紀伊国に坐した親王の令旨

〔二八九〕に挙げたのは、紀伊国に坐した親王の令旨で、吉野郡大杉の武士等の所領を安堵せしめらるる為に出したものであるが、何宮の令旨であるか詳かでない。かように吉野時代の令旨には、勤皇事蹟に関する貴重な史料となるものが極めて多い。とのことです。

勤皇軍を指揮した常陸親王

〔二八八〕は先に土佐国にあり、後に周防国の辺に移られて、勤皇軍を指揮せられた常陸親王の令旨で、正平六年八月七日、安芸国の武士三戸頼孝の来附を聞召されたる由を伝えたものである。之は先に述べた綸旨の切紙と同じ形の料紙を用いている。とのことです。

建武中興それから吉野時代、諸国にあって勤皇軍の指揮に当たられた各宮々からもそれぞれ令旨を出し、その今日に遺るものが少なくない。〔二八七〕に挙げたのは、正平三年九月廿九日、征西大将軍宮懐良親王の令旨で、肥後阿蘇の恵良惟澄の軍忠を賞せらるるこ…

播磨大山寺の衆徒に参陣を促した令旨

〔二八六〕は、翌三年二月廿一日、播磨大山寺の衆徒に参陣を促された有名な令旨。それから諸国の武士に下されたものは、図版に挙げたものの外に、或いは大隅国或いは陸奥国の武士に下されたものも遺っており、当時非常に広い範囲に亙って出されたことが判る…

大塔宮の令旨

大塔宮が皇政復古の為令旨を下して、社寺をしてその御成就を祈らしめ、又諸国に勤皇の武士を御招きになった、その令旨が今日諸方に伝わっているが、〔二八五〕に挙げたのは元弘二年十二月二十六日、和泉国の久米田寺をして御祈祷の忠勤を抽でしむる為に出し…

後堀河天皇皇后宮の令旨

次に〔二八四〕に挙げたものは、〔貞應三年〕四月廿二日、後堀河天皇皇后宮の令旨、醍醐寺成賢に其弟子の内何人が、安楽寿院領上総橘木庄内十三郷を知行しているかを尋ねらるる為に下されたものである。皇后宮のものとしては、実に類稀の文書である。とのこ…

皇太子の令旨

この令旨の皇太子のものとして伝わるは、極めて稀であるが、〔二八三〕に挙げたのは、正和三年七月三日、尊治親王(後醍醐天皇)が、春宮にましました時、七條院(高倉上皇後宮藤原殖子)の御領を四辻入道親王に進めまいらせる為に出された令旨である。これ…

書状奉書の書式をとる令旨

令旨と云う文書は、公式令に皇太子并に三后即ち皇太皇后、太皇后、皇后の御命を伝えさする為に出すものと、その様式が規定してある。然るに奈良平安時代の初期に於いてはは、之に当たる令旨が伝わっていない。而して書状奉書式の文書が公文の様式に入った頃…

大塔宮護良親王の令旨

第四種 令旨 (略) この文書は、大塔宮護良親王が、備後因島の本主治部法橋幸賢の子息等が、かの吉野山に於ける元弘三年四月三日、同八日、同廿七日の合戦にて、討死せる戦功を褒する為に下された令旨である。とのことです。

室町時代の院宣

次に〔二八二〕は文明元年四月廿八日、後花園法皇から広橋兼宣がその子兼顕に記録文書家領等を譲与したことを御許しなさる為に出したものである。かように室町時代にも院宣が出ているが、院宣は上皇法皇が院政を行わせられた時に、別して多く出されたもので…

宿紙を用いた後伏見上皇の院宣

次に〔二八一〕挙げたものは、(正和三年)十一月一日、蔵人堀河光継に、伊勢外宮領京都三条以東洞院以西宮地八段の訴訟に関して下された後伏見上皇の院宣であり、料紙が特に宿紙を用いている。これは院宣を奉じた右大弁九条光経が蔵人頭をも勤めていたから…

院宣の原本、最古は後白河上皇の院宣

院宣の原本として伝わる古い時のものは〔二八〇〕に挙げた(保元三年)十一月十七日附、平親範が奉じて、大和国田畠の検注に関して、国司の申状を東大寺に伝える為に出した後白河上皇の院宣である。とのことです。

大江匡房の奉じた院宣

院宣は所謂院政時代から起こったものであることは申すまでもない。〔二七九〕に挙げたのは、白河上皇院司の大江匡房の奉じて出したもので、今伝わる院宣では最も古い。淡路守に日吉御幸の禄料を調進せしめる為に出したのであるが、その年次は詳かでない。右…

仮名交じりの院宣は稀

院宣も之を受ける者が女子であると、仮名交じりに書く。次に挙ぐるものはその一例である。 (略) 亀山法皇の侍女烏丸典侍局の所領若狭名田庄内下村別納の地に対して、心賀法印と申す者が乱妨を加えたので、先度の安堵の為に下された院宣に任せて、元の如く…

第一紙と第二紙で行の高さが違っている

尚この文書に就いて注意すべきは第一紙の最後の行と第二紙の最初の行との高さが揃っていないことである。これは文書を書く場合に、紙を継いで今日の巻紙の如くして認めずに紙を離したまま書くからである。これは院宣に限らず、綸旨でも御教書でも将又一般の…

闕字と平出

さて院宣の言葉がこの文書には二箇所に出ている。三行目の院宣の上に、一字分空間がある。これは先に綸旨のところで記した闕字と申すもので、院と云う文字に敬意を表するためにあけたものである。終りの行の院宣は、別行に改められている。これは平出と申し…