2022-08-01から1ヶ月間の記事一覧
次に承久合戦を経て義時の時代を過ぎると、大抵執権一人若しくは執権連署の両人が奉じて出している。〔三一九〕は、執権北条泰時、連署同時房が奉じて、六波羅探題北方北条重時、南方同時盛に充てて出したものである。当時執権は泰時で、時房が連署、この頃…
武家の下知状の始まりが、実にこの一例であることは既にその項で述べた通りである。例式に違う文書に就いては、その時の制度の変化によくよく注意して、その性質を極めるように努めなければならない。かくして更にその制度の変化、若しくはその文書を出した…
之が義時の時代を過ぎて執権北条泰時連署同時房の時代に至ると、何れに対しても一様に執権連署の連署奉書で出すこととなって来たのである。要するに、この特殊の奉書は、義時専権時代の特異の事情に依って起こったものである。かように三代将軍の時代から執…
然しこの形式の文書は、充所にも依るもののようである。即ち此の形式の奉書の充名は、地頭御家人の如き地位の低い者計りである。地位の高い者には、義時が直接仰せを奉って出した通例の奉書もある。之に依って見ると、当時義時の威権が強大であった為、義時…
実朝の歿後、未だ関東の主が定まっていなかったから、鎌倉殿の仰せに依って云々の奉書を出さず、義時が上意を受け、之をその下位にある者に命じて奉書を出さしめた形式をとることとなって、右の文書が現れるに至ったと考えられる。とのことです。
次に〔三一八〕に挙げたのは、実朝の弑害にあった翌年即ち承久二年十二月三日に、関東から出羽国の大物忌小物忌両社修造の事に関し、同所の北目地頭新留守と云う役者に向かって出した奉書、文中陸奥守殿御奉行とあるは、北条義時が、或る上位の者の意を奉っ…
〔三一七〕は、建保五年七月廿四日、実朝の時代、執事二階堂行光と家司清原清定の両人が仰せを承って、筑前国宗像社大宮司職に関して、筑前の守護藤原(少弐)資頼に向かって出した御教書である。この御教書は、差出所が連署となっており、この形式は公家の…
この将軍家の御教書は、既に頼朝の時代から用い、その時には頼朝の右筆若しくは政所の家司等が頼朝の仰せを奉じて出していた。〔三一五〕に挙げた文書は、右筆平盛時が奉ったものである。次に頼家の時代に至ると、〔三一六〕の如く、執事北条時政が奉って出…
扨て右の奉書は、執権連署が、将軍の仰せを奉って出した一種の奉書で、之を当時関東御教書と云う。関東とは当時鎌倉幕府を指していたのである。幕府の命令を諸方に伝えるには、この執権連署の奉じた御教書を用い、その取り扱う内容は広範囲に亙っていた。と…
右の奉書は、薩摩阿多北方の地頭に代官をその所領に下すように伝えたものである。同地頭は当時女子であったから、代官を下すように命じたのである。かくて鎮西に在来から居住し或いは新たに下向した地頭御家人が、一国の守護人の命令に従って、蒙古人襲来の…
ち 武家御教書・奉書 関東御教書 (略) この文書は、鎌倉幕府の執権北条時宗連署同政村が、将軍の仰せを奉じて、薩摩国阿多北方の地頭に出した奉書である。蒙古人襲来の風聞があったので、之に備える為に幕府は種々の方策を講じた。鎮西諸国に居住していた…
尚之と同じ書式の国宣の一例を挙げるに、〔三一四〕は、建武元年十二月十七日附豊前の国宣、肥後阿蘇氏の一族上島惟頼に、豊前萱津又三郎跡を賜る綸旨を施行する為に出したものである。とのことです。
この宣旨を、国の知行主が管内の社寺地頭御家人等に伝達する為に数多国宣を出しているが、右に挙げたのが信濃国の一例で、市河六郎左衛門尉に、現在所持している所領を、右の宣旨に任せて従前通り所持してよろしいということを伝えたのである。国宣は此の頃…
と 国宣 次に諸国の知行主の仰せを承って出す奉書もあり、之を国宣と呼んだ。〔三一三〕に挙げたのはその一例、元弘三年八月三日附、信濃国の国宣である。同年七月二十五日、北条氏に与みせなかった者の知行を、元の如く所持せしめる由の勅令が下された。こ…
尚検非違使別当宣の例を示すと、〔三一一〕の如きがある。之は(承久元年)三月十二日に金峯山と高野山との境相論に関して出したもので、案文である。〔三一二〕は〔康永四 興国六 年〕五月十三日、小早川重景と千葉胤泰との京都四条堀川同油小路の敷地に関…
而して訴訟の場合には評議決定した結果を諸官連署にて文書を作り上奏する。之が評定文である。之を勘奏或いは注進状等とも云っている。之に依って院が御裁可あらせらるると、評定文の内容を院宣に書いて下さるるのである。院宣にして訴訟の裁決を伝えている…
この別当宣に云う評定文は、後出一八四図に挙げた諸官評定文である。それからこの別当宣の充名人たる中原某が、命を受けて施行する為に出した下文は、既に下文の項に挙げた〔八九〕の文書である。この三通の文書はかように相連関したものである。扨て当時院…
へ 別当宣 官司の長官の命を承って出す奉書類もある。検非違使の別当の仰せを奉って出す奉書を別当宣と云う。 (略) 千鶴丸と松鶴丸と申す者が京都北小路大宮にある敷地に関して相論したが、之が裁決に関して文殿の諸官が評定し、又その結果を注進状として…
尚一寺を統括している座主法務等から出した例をみるに、〔三〇九〕は、〔貞永二年〕九月廿九日、東寺長者道意の侍者が仰せを奉り、高野山の検校昇成に、同山領備後太田庄の預所に関して出した文書で、之を長者の御教書と称している。又〔三一〇〕は、建徳二…
〔三〇八〕に挙げた文書は、その一例、天文廿二年五月廿一日、聖護院の役僧両人が、武蔵足立郡の大行院に向け、上足立地方の伊勢熊野先達并に檀那職に関して、門跡の仰せを承って出した奉書である。これは料紙に竪紙を用いているが、又折紙に仕立ててあるも…
同じ門主でも未だその称号を得ず、一山を管掌している場合には、御教書と称すべきものである。尚同じ准后の仰を承った奉書でも、前に述べた武家の奉書の形式に倣った公家の奉書と同じ形式を具えたものもある。之を御教書若しくは奉書と呼んでいる。とのこと…
ほ 寺院令旨・御教書 寺院の門主にして准后、即ち准三宮(太皇太后、皇太后、皇后即三后の礼遇を賜るもの)の称号を受けた者の仰を承って出す奉書は、これを令旨と呼んでいる。〔三〇七〕に挙げた応永廿九年十月十九日、聖護院満意准后の仰を承って出した奉…
〔三〇六〕に挙げたものは、建武三年十一月六日、橘氏の氏社梅宮の神人の訴訟に関して出した文書の案文である。端裏書に是定宣と記してある。余り多く伝わっていない文書である。 因みに是定は鎌倉時代以後九条家の人々が兼ねる慣例であったと北畠親房の職原…
に 是定宣 橘氏の長者は、その氏の学校学館院の別当に当たり、又氏社等を管理したのであるが、平安時代の中頃から、その勢力衰え、藤原氏の長者がその位置を兼ねることとなった。このときには藤氏の長者を是定と云い、その人から出す奉書を是定宣と称した。
伝奏とは禁裏御倉職に関する申次で、廣橋家がこの申次をその家の職務としていたと見るべきである。尚この奉書の形式は、後に説く当時に於ける幕府奉行連署の奉書と同じであるが、恐らくこの影響を受けてかような文書を出すに至ったのであろう。とのことです。
次に〔三〇四〕と〔三〇五〕とは、同じ形式の奉書、〔三〇五〕は享禄三年十月二日、立入幸夜叉丸をして禁裏御倉職を勤めしむる為に出した奉書。伝奏蔵人頭廣橋兼秀が、勅旨を承け、更にその家の諸大夫をしてこの奉書を出さしめたのである。とのことです。
〔三〇三〕は元中六年六月十八日、前内大臣阿野實為が、観心寺寺僧をして和泉国御酢免壹分の寺領を領知せしめる為に出した御教書である。この文中に阿野前内大臣殿御奉行候ふ所也とあるのは、實為が、かくかくの上位の者の命を奉行すと言う意味である。取次…
は 諸家御教書・奉書 摂政関白家以外の諸家の御教書の例を示すに、〔三〇二〕の如きものがある。これは建武元年十一月十二日、内大臣吉田定房が勅願寺肥前高城寺の寺領安堵の為出したもの、当時定房は肥前国の知行主であったから、後に説く肥前の国宣と申し…
〔三〇〇〕は同じく正安元年十月廿九日、長者二条兼基が氏社香取社の神主を補任する為に出したものである。降って〔三〇一〕は永正十七年五月廿日、長者二条晴良が多武峰衆徒に、同社造営に当たり、仮殿遷宮を行うことを許す為に出したものである。書式の細…
ろ 長者宣 摂政関白が氏長者としての諸務を司るところに南曹というものがあり、ここに職を奉じていた辨官が長者の仰せを奉じて氏の社寺の事に関して出す御教書は長者宣と称した。〔二九九〕は〔治承二年〕十二月七日、藤氏長者松殿基房が、氏寺興福寺唯識衆…