2023-01-01から1ヶ月間の記事一覧

施行遵行状に依って一旦止めてもなお続く押妨

唯室町時代の前半に於いてかかる事が著しくなったのである。之は当時下地の押領押妨が甚だしくなって、之を停止する将軍の命令が盛んに降る必要を見たからである。勿論この施行遵行の文書で、何れの場合も無事落着したわけでは無い。押妨した人が施行遵行状…

鎌倉時代末期から地方の守護が打渡しを行う

かくの如く、管領、守護、守護代、守護又代官、使節の施行状、遵行状、打渡状は、足利氏の幕府の初めから多く現れてをり、大体管領の権威のあった応仁文明の乱以前に盛んであった。なお、地方の守護が、幕命を施行し、地元の使節が打渡しを行う制規は、室町…

管領畠山基国の施行状

管領が将軍の仰を奉じて出す文書は、既に述べた如く御教書と称したのであるが、その命令を下に実行せしめるために伝えるもの、即ち前記畠山基国が、美濃国の守護人に充てた奉書の如きものは、特に之を施行状と称したのである。この管領の施行状を、更に守護…

打渡状若しくは渡状

之を守護の施行状若しくは遵行状と云う。最後に使節として地元に於いて沙汰を実行する者が、当該所領をこの沙汰の相手方に渡付することを打渡すと云い、この時文書を以ってその旨を伝える。その文書を打渡状若しくは渡状と云う。〔六八二・六八三〕に挙げた…

御判の御教書を受けた施行状

この施行状は更に下級の者が相承けて下に施行することもある。かようにして幾通か施行のために出す文書が連続して作られるのである。 〔四一〇〕に挙げたものは、応永八年六月十四日附で、管領畠山基国が、佐竹常尚の知行地美濃国山口の事に関して、五月二日…

鎌倉極楽寺の末寺称名寺の長老釼阿

なお寺院に於いて綸旨を施行した形式の文書として〔四〇九〕の如きがある。これは元弘三年八月十九日、鎌倉極楽寺の俊海が、同寺の勅願寺たること、并に同寺及びその末寺の所領安堵の綸旨を賜り、この綸旨の趣を末寺称名寺の長老釼阿に伝えるために出したも…

河内守楠木正儀の施行状

〔四〇八〕に挙げたのは、正平十年四月十日、河内守楠木正儀が、摂津山田庄を金剛寺結縁灌頂料所に寄附せらるる由の綸旨を、摂津国の代官橋本正高をして遵行せしめるために出した施行状である。とのことです。

当時極めて多数出された施行状

令旨を施行するために出したのであるから、之を施行状と云う。かような施行状は当時極めて多数出されている。彼所に莅み、其の節を遂げ、起請の詞を載せ、注申せらるべしとは、かかる施行状に定まった文言である。実際下地を渡付したかどうか、或いは何かの…

征西大将軍宮懐良親王の令旨

(略) 右の文書に御教書とあるは、征西大将軍宮懐良親王の令旨を指す。令旨に依り恵良惟澄に肥後国守富庄半分地頭職を充行われたが、河尻氏一族が之を惟澄に渡付しないので、同国守護菊池武光が令旨を承り、使節として窪田越中介を遣わし、守護代と共に、下…

差出者が上位のものからの文書を受けて下に施行した文書

第一〇種 施行状・遵行状 以上は文書の差出者がその文書に依って直接意志を伝えているのであるが、差出者が上位の者から送った文書の意を受けて、之を下に施行するために出すものも極めて多い。鎌倉時代に於ける一二の例は既に挙げたが、ここにはその後の実…

朝鮮征伐の際の民兵挑発

やがて翌天正廿年即ち文禄元年起こった朝鮮征伐の際、民兵とも申すべきものを徴発するに、忽ちその効用を発揮したものと思われる。寧ろかような海外に対する一大事を決行する重要な準備であったとも考えらえるであろう。なおこの人払に関する史料は他にもあ…

事書状、または手形の一種

内容が一つ書になっているから事書状と申してもよいであろう。年寄奉行衆から出した手形の一種と見ることもできる。秀吉が人払を行ったのは、天正十八年関東の北条氏討滅に依って、全国がその一手に統御せられて来たのに依るものであって、この人払に依って…

天正十九年秀吉の人払令

〔四〇七〕は、天正十九年秀吉が、全国の人払即ち人口調査の命令を発し、安芸広島の毛利氏がこの命を受け、その奉行安国寺恵瓊、佐世元嘉の両人が、更にその人掃に関する細かい規定を出雲富田の城主吉川家の年寄に伝えるために出した文書である。とのことで…

伊那忠次、彦坂元正、大久保長安の手形

〔四〇六〕は、慶長五年十二月十八日、徳川家康の奉行伊那忠次、彦坂元正、大久保長安の三人が、遠江中泉八幡社に社領寄進に関して出した手形である。文中之を三判と云っている。なお奉行一人で出している手形もある。とのことです。

増田長盛、石田三成、大谷吉継連署の人馬往来の手形

第九種 手形・証文 先の折紙と大体同じ意味のもので、竪紙若しくは之を竪長に切った紙を料紙に充てて、年寄奉行衆から出しているものがある。之を手形証文類と称している。〔四〇五〕は、天正廿(文禄元)年三月四日、豊臣氏の奉行増田長盛、石田三成、大谷…

折紙は近世に及び用いられる場合が多くなった

本文の書止めは、「如件」に限らず、〔四〇二〕に挙げたものの如く「恐々謹言」で結んでいるものも、その料紙が折紙であると、折紙と称するのである。 この折紙は、次第にその用いられる場合が多くなった。戦国時代の末期から、近世江戸時代に及び、大名殊に…

料紙の形状から名称が生じた折紙

第八種 折紙 更に〔四〇一〕は、弘治二年十二月廿七日、三好長慶が東寺雑掌に充てた文書である。その料紙は折紙を用いている。この文書は、東寺公文所の公文たる浄忠と申す者父子が、年貢収納の算用即ち計算に就いて不正を行い、ために斗升を私して逐電した…

加藤清正の掟書

〔三九九〕に挙げた文書は、天正七年八月十二日、北条氏照が相模江島の上宮岩本坊に充て、同島に関する諸事取締に関して出した文書であるが、書札の形式を具えている。文書の名称としては掟書と呼ぶべきであろう。次に〔四〇〇〕は、天正一六年閏五月六日、…

加藤清正の掟書

〔三九九〕に挙げた文書は、天正七年八月十二日、北条氏照が相模江島の上宮岩本坊に充て、同島に関する諸事取締に関して出した文書であるが、書札の形式を具えている。文書の名称としては掟書と呼ぶべきであろう。次に〔四〇〇〕は、天正一六年閏五月六日、…

朱印状判物と形様に変わらず堂々たる文書

爾後この次第を守って社務職に就き室町時代以来の紛議の解決を見るに至ったのである。料紙は大高壇紙を用い、当時の社寺領寄附若しくは安堵の朱印状判物と形様には変わりない堂々たるものである。とのことです。

徳川家康の裁許状

次に裁許状の一例を図版に収めて示そう。 (略) 石清水八幡宮の社務は、室町時代以来田中以下の諸祠官家が交替にてその職に就いていたが、その諸家の間にその次第に関して紛議を重ねることがあった。徳川家康の代に至って、之が順序に関する訴訟を裁決し、…

今川氏真の裁許状

更に訴訟の裁許に関して出した判物もある。〔三九八〕は、永禄三年九月十五日に、今川氏真が駿河清水湊の船役の訴訟に対して出した裁許状である。又証状若しくは証文とも云っている。当時の民政資料として興味ある文書である。とのことです。

安芸守護武田信之の預ケ状

尚判物の一種に預ケ状と云うものがある。〔三九七〕はその一例で、応永十四年二月廿七日、安芸守護武田信之が、同国の熊谷在直に、所領を預けるために出した文書、之を当時預ケ状と呼んでいる。所領を充行うとは、永代所領を与えることであるが、預け置くと…

聖護院准后満意の安堵の書状

〔三九五〕は、寛正六年四月十四日、聖護院准后満意が、弁僧都と申す者に甲斐国の武田、辺見、跡部諸氏の熊野参詣先達職を安堵するために出した、安堵の書状とも云うべきもの、〔三九六〕は、天正の初頭、同じく聖護院門跡である准后道澄が、勝仙院に周防秋…

羽柴秀長の判物

〔三九四〕に挙げた文書は、羽柴秀長が城外より出づる者に関して命を伝えたのであるが、矢張り判物と称すべきものである。 以上は武家の人々の知行充行安堵等に関する文書であるが、寺院の門主からだしたものもある。とのことです。

復古的色彩が強い大内氏の文書

神寶御装束之次第、兼右朝臣伝受之由、尤神妙候也、 五月廿八日 (義隆)(草名) 宇佐宮装束司所 この文書は、大内義隆が、宇佐宮装束司所に、神寶御装束の故実を京都の吉田兼右から伝授したことを賞するために出した文書である。差出所に表してあるのは、…

羽柴秀吉が小早川隆景に充てた判物

次に〔三九三〕は、天正十三年六月十八日、羽柴秀吉が、小早川隆景に、伊予一国を充行った時のものである。之は判物と称して適当するであろう。大友氏の判物と之と比較してみると、大友氏のものが鄭重な書礼と云うべきであるが、それは右に述べたような理由…

知行充行の判物

然らばこの種文書は、単に書状としても、一応文書としての名称は通る。然し、その内容に依って適当に付けるとすれば、持直のこの文書は、知行充行の判物と呼ぶべきであろう。預ケ状と称するものは、永代充行いで無く、一時の預ケ置の時に出す文書を指してい…

戦国時代の一国のみに通ずる書礼

従ってこの書式をとって他の国の大名の文書と、書礼に於ける厚薄を比較することは不可能である。かように戦国時代に、その一国にのみ通ずる書礼も行われていたことは、極めて注目に値する事実というべきである。とのことです。

大友氏の文書の著しい特色

これは独り持直のもの計りで無く、大友氏は歴代家臣に知行を充行うに、かような書式の文書を出している。知行充行ひ計りで無く、他の種々の事柄の場合にも同様の書式を具えた文書を出している。これが大友氏の文書の著しい特色である。とのことです。