2023-02-01から1ヶ月間の記事一覧

大友宗麟の時代でも書状と別紙の二通をだす形式

前者は名字授与の書状で、之に後者の別紙に名字を書いて送るのである。大友氏はかく書状と名字を書いた別紙の二通を出しているが、之は宗麟義統の時代になっても同様の形式であった。一家に於ける此の種の文書がかく永く同じ書式をとっているが、これを他家…

首服を加えとは、元服と同意

諸大名がその親族若しくは家臣に一字を付けた時の書出しの一二の例を挙げると、〔四二二〕は、永徳三(弘和三)年四月十五日豊後守護大友親世が、家臣宇都宮(佐田)因幡次郎に首服を加え、親の一字を授けて親景と名乗らしめた時の文書である。とのことです。

将軍義輝が人吉の相良義陽に義の一字を授けた

永禄七年二月九日、将軍義輝が、肥後国人吉の相良義陽に義の一字を授けたことがあるが、この時豊後の大友宗麟(義鎮)から異例としてその不当を申し立てている。蓋し大友氏は将軍家からその上の字を拝領し、然もそれが家の通字になっていたところから、自家…

足利家の通字、義を与えられるのは特別な家格

而して将軍の実名二字の中、上の義は足利家の通字となっていたので、普通には下の字を授けていた。先の長尾晴景伊達晴宗は其の例である。之に対して上の一字を授けることは、その家格が余程高いもの出なければ行わなかったもののようである。とのことです。

大切に保存された将軍の一字書出し

戦国時代に於いて、諸大名がその家臣に名字を授くるは、一般の習わしとなっていた。この名字の書出しも多数遺っている。この名字を授かることは、その家格に権威を加えるものであった。諸大名の中に於いても、将軍の一字を受けることは、その家格を高くする…

仮名も他から授かるもの

一字を授かることは、多く元服する時に行われる。元服して童名即ち某丸と云う稱をやめて、仮名を即ち彌六郎の如く付けて、又実名を即ち晴の一字を受けて晴景と称するのである。仮名も他から授けるものであって、之を授ける時に出す文書があり、更に長じて官…

取り次いだ大館尚氏の副状も加えて送られる

〔四二一附録一〕に収めたものは、彌六郎の申請を取り次いだ大館常興(尚氏)に下された義晴自筆の御内書である。この御内書に一字書出しを副え、更に尚氏の副状〔四二一附録二〕を加えて、本人の許に送るのである。とのことです。

大高檀紙折紙を三つに折ってその中央に一字を書く

先の伊達次郎の一字書出しは、義晴の自筆では無いが、これは自筆である。大高檀紙折紙を三つに折ってその中央に一字を書き、三つに畳んで更に同質の料紙で包んである。この包紙には墨付はない。この一字拝領の時は、一字の申請いを取り次いだものに、将軍か…

将軍足利義晴からの「晴」の一字書出し

一字書出しは、極端に簡単なものになると、袖判も充所も無く、唯授くる一字を書くに過ぎないものもある。この型の書式の実例として、便宜〔四二一〕に収めたものは、享禄元年十二月十二日、将軍義晴から、越後国の長尾為景の子息彌六郎に、晴の一字を授けた…

一字の書出し

一字の書出しは、右に見る如く文面が極めて簡単であり、之に依って書式の型を説くことは意味のないように思われるけれども、右二通は、先づ袖署判充所のある書式の型の中に入れて差支えないであろう。伊達次郎と充所に敬語の副えてないのは、将軍の地位が高…

物を授ける時の目録に折紙を用いる

右二通料紙は何れも折紙を用いている。物を授ける時の目録に折紙を用い、折紙を拝領することが物を戴く習わしになっている。名字も之に準じたものであろうか。折紙を用い、字を中央にして三折に折るのが通例の折り方である。とのことです。

一字の書出し

(略) 上の文書は天文二年五月十日、将軍足利義晴が出羽国の伊達次郎に晴の一字を授けるために出したもの、下の文書は天文二十年三月十一日、周防国の大内義隆が、安芸国厳島社の棚守左近将監に、隆の一字を授けるために出したものである。当時之を一字の書…

この書式のもの、袖判を加えたもの、充所のないもの

而して精密に云えば、この書式に入らない即ち袖判を署して差出所を表したり、又充所を欠いているものもある。然も此等の文書の表し方は至極簡単なものである。依ってこの部類に限り、便宜袖判を加えたもの、充所のないものも、この書式のものと一つに纏めて…

形式が簡単で却って書式が定まらない名字状

第一二種 名字状・官途受領書出等 次にこの書式を具えた文書に、元服の折名字を与え、又仮名、官途受領等を称することを許すために出すものがある。この部類の文書は、何れも形式が簡単であるが、却って固定した書式が定まっていない観がある。とのことです。

住持に任命、幕命を奉じて出す形式

住持に任命するのは一種の栄誉であるところから、この時代に於いても幕命を奉じて出す形式をとったものと思われる。所領等に関しては事、実際上の事柄に亙るを以て、かかる形式上の文書を出すわけに行かなかったと見るべきである。とのことです。

大友宗麟の奉書

なお〔四二〇〕の如く豊後の大友義鎮(宗麟)が元用西堂を正観寺住持職に補任するために出した文書であるが、義鎮の直状で無く、奉書である。仰下した者は将軍家と見るべきである。当時幕命を施行する形式の文書は伝わっていないのに、かかる公帖のみに幕命…

蔭凉軒日録に御判あるいは御教書と記載

なお〔四一八〕は、文明十七年九月十六日、義政が、前出肥後国の清源寺を諸山に列するために出した文書であるが、之は公帖とは云わず御判或いは御教書と称していることが、蔭凉軒日録に見えている。〔四一九〕は近江退蔵寺を十刹に列した時の御教書の一例で…

将軍足利義詮の坐公文

〔四一五〕は貞治二年正月卅日、将軍足利義詮が、寂室元光を建長寺住持に任命したものであるが、元光は事実建長寺に入院しなかったから、坐公文の早い時のものに当たっている。〔四一六〕は将軍義満が春屋妙葩に出した相国寺入院の公帖であるが、日下に花押…

執権北条高時の住持職任命の文書

住持職任命に関する古い文書は、鎌倉時代のものもある。管見に入った初めのものは、〔四一四〕に挙げた、元応二年五月廿日、執権北条高時が了一を上野国長楽寺の住持に任命した時のもので、ここに挙げた文書の部類に属する書式を具えている。とのことです。

室町時代中頃に濫発された公帖

公帖は室町時代の中頃には濫発し、自然実際入寺しない坐公文が多くなった。之は料金を出してこの公帖を買うことが始まり、また将軍家も諸寺院に関する費用を捻出する方策として、坐公文を多く出して、その官銭を之に当てるようになったからである。然しその…

大高檀紙を用いた公帖(こうじょう)

前掲の承天寺の公帖并に封紙は、何れも大高檀紙を用いているが、之が当時の通例であった。而して料紙の折方は、縦に五筋六片に折り、第一片は白面、第二片は第一行づつを収むる型式となっている。従って封紙の折方も料紙を立てて右の本紙が入るように折って…

徳川将軍家の公帖

前記清源寺の公帖は、義政の官と花押とがあってこの規定にはづれている。徳川将軍家の公帖は、花押の代わりに印を用いているが、右の規定に従っている。而して執務云々の文言并に官位の関係は、大抵徳川将軍家の公帖には適合しているようである。とのことで…

蔭凉軒日録に依る花押を書く規定

なお和漢礼経に、差出者たるものが、官が位よりも高ければ、官に花押、位が官より高ければ、位に判という規定を挙げている。之も室町時代には明らかで無い。然るに、蔭凉軒日録に依ると、十刹以上の諸寺には、官と花押を書き、諸山は花押のみを書く規定であ…

平五山と同格の承天寺の公帖

南禅寺并に平五山は「可被執務」、十刹は「可令執務」、諸山は「可執務」と次第してある。之に依ると、右に挙げた承天寺の公帖は、平五山と同格のものであった。然しこの規定が何時から生じたものか明らかで無い。蔭凉軒日録、又今に伝わる公帖の実物に依る…

公帖若しくは公文

承天寺は円爾弁円(聖一国師)の開いた臨済宗の道場である。かく将軍家から臨済宗禅寺の住持を任命するために出す文書を、特に公帖若しくは公文と称した。中に単に儀礼上任命するに過ぎないものを生じ、之を坐公文と云い、実際寺務を執った時のものを入院公…

将軍義稙が元甫を承天寺の住持に任命した補任御教書

(折封ウハ書) (義稙) 「元甫西堂 権大納言(花押)」 承天寺住持職事、任先例可被執務之状如件、 永正十二年十一月廿八日 権大納言(花押) 元甫西堂 この文書は、将軍義稙が、賤嶽元甫を筑前国博多の承天寺の住持に任命するために出したものである。との…

三宝院賢俊を京都六条八幡宮の別当職に補任するための補任御教書

第一一種 補任御教書・公帖公文 所領に関係した所職に補任するとか或いは之を充て行うと云うことは、その所領を附与する意味であるが、又別に社寺の別当若しくは住持の職に補任するために出す文書もある。〔四一三〕は、建武五(延元三)年八月十一日、足利…

遵行の地に立ち還り

当時かかる不法な行為を立還遵行地即ち遵行の地に立ち還りと称している。然し当時施行遵行状に依って無事押妨を止め得たこともあったから、かかる施行遵行状が多く伝わっているのである。全然効力の無い文書は作成される筈も無く、又大切に伝わるわけもない…