2023-03-01から1ヶ月間の記事一覧

室町将軍家の御内書は、備中引合(檀紙)を料紙に充てる

室町将軍家の御内書は、多く備中引合と申す通例檀紙と称する紙を料紙に充てるのがきまりであり、今日遺っているものにその例を見る。遠方の諸大名に送ったものは、今日遺っているものに依ると、必ず厚手鳥子の切紙を用いている。然しまま切紙で無く、竪紙で…

義輝から毛利元就へ、義昭から吉川元春への御内書

此等の文書は先に挙げた義輝の毛利元就に、義昭の吉川元春に充てた御内書等と共に、当時に於ける諸国大名の関係を窺うに足る重要な文書と云うべきであろう。とのことです。

備後鞆の足利義昭の御内書

〔四四三〕は(天正六年)九月十一日、備後鞆に居った足利義昭が、薩摩の島津義久に豊後に出勢を促し、この出勢に依って同国の大友氏を牽制して、これがため安芸の毛利氏の義昭の帰洛援助を容易ならしめんとする計画を告げ、義久に切に忠節を抽でしめんがた…

「某可申候也」の某が副状を出す

御内書の本文の書止めに、なお「某可申候也」とある時は、その某が副状を出す由を述べているのである。然し侍臣の副状に当たるものが、先方の主君に充ててでは無くその家臣に充てて出すこともある。かかる時には奉書の形式で出ることもあるが、又副状と称し…

御内書に伴う副状

御内書は多くの場合副状を伴うこと、前に挙げた足利義輝の御内書に就いて一言したが、副状が一通に限らず、なお多数伴った事例を示すに〔四四二〕の如きがある。之は享禄四年六月細川高国が、同晴元の部将三好一秀のために殺されたので、高国が擁していた将…

信長、秀吉の書札式の文書は御内書と称していない

室町時代に於いて、御内書は将軍の書状に限って称したが、この将軍家に代わって天下を経略した織田信長次いで豊臣秀吉の書札式の文書は如何と云うに、何れも明らかに御内書と称した事実を発見し得ない。更に降って、徳川家康以下の同氏将軍に至ると、その書…

足利義昭の毛利小早川吉川三者への御内書

〔四三六〕〔四三七〕〔四三八〕に挙げたのは、その一二の実例である。かような御内書は、諸大名の興廃、その相互間の交渉史を正確に究める上に、至極重要な史料となっている。とのことです。

義輝義昭時代の御内書

かように御内書は、単なる私の書状で無く、政治に関係した事柄を通達したものも現れて来る。この傾向は室町時代の末期に及ぶと殊に著しい。義輝義昭の時代に於ける御内書は、諸国の大名にそれと政治上の交渉に関して送ったものがあり、その内容が複雑となっ…

将軍義政の古河公方成氏宛御内書

〔四三五〕に挙げたのは、(文明十四年)十一月廿七日、足利義政が関東の古河公方足利成氏と和睦を結ぶときに送った文書で、この書式のものも御内書と称している。書止め「候也」が、「仍状如件」と変わっているのは、先方の成氏が平の武家と異なり足利家一…

義満の時代頃から御内書と称するようになった

なお御内書と云っても、その書式は右に挙げたものに限るのでは無い。要するに書札式を具えた普通には書状と申すものを、義満の時代頃から御内書と称して来たのである。従って御内書と申せば、他の項に挙げた書札の形式の種々のものをとっている。とのことで…

武家の格式を表す裏書免許

かようなわけで文書の裏書免許ということは当時に於ける武家の一種の格式を表徴するものであった。当時かかる表徴はこれ計りに限らず武具等各種のものに及んでいたのである。それが当時の書礼と結んで、ここにかかる儀礼上の慣例を見るに至ったことは、書礼…

裏書の免許

即ち裏書の免許とは、免許を受けた人の書礼の上に一種の高い資格を与えるものであって、之がその人の栄誉と考えられたわけである。これと同時に文書の文言も之に相応した書様を許されたのである。晴光の副状に書いてある如く、三管領并に将軍家の一族には、…

文書の裏書

之は右に挙げた晴光の副状の外形を示した図版に依ってよく了解せらるるであろう。この場合大舘上総介の一行が裏に当たるので、之を文書の裏書と申すのである。この裏書を免許するとは、書くことを省いてよいと云うことである。之を書くのは、勿論鄭重な書礼…

文書の封紙の裏書

(略) かように御内書には副状の付くことが屡々ある。 扨て裏書と申すのは、文書の封紙の裏書と云うことである。即ち、封紙には苗字官名若しくは苗字と名字とを書くのが普通である。先の大館上総介晴光とあるのが之に当たる。この文言は、封紙に二行に書く…

足利義輝の長尾景虎宛御内書

「(折封ウハ書) 長尾弾正少弼とのへ」 裏書事、免之条、加分別、可存其旨候、猶晴光可申候也、 六月廿六日 (義輝)(花押) 長尾弾正少弼とのへ この文書は(天文廿一年)六月廿六日、将軍足利義輝が、越後の長尾景虎(謙信)に裏書を免許するために出し…

将軍足利義教の御内書

〔四三四〕に挙げたものは(永享五年)閏七月八日、将軍義教が筑前守護渋川満直をして、阿蘇惟郷に忠節を尽くすべきことを促さしめるために出したものである。京都から九州へ遥か遠方に送ったためであろう、鳥子の切紙を用いている。この封紙は存していて、…

島津元久宛、将軍足利義満の御内書

硫黄二萬五千斤到来候了、神妙候、鐙一両浅黄絲、太刀一腰遣之候也、 九月二日 (義満)(花押) 嶋津陸奥守(元久)殿 この文書は薩摩の島津元久が将軍家に硫黄を贈ったので、将軍義満が元久に対してこれを感謝するために出したものである。料紙は引合せを…

次第に公的意義を持つに至った文書、御内書

第一三種 御内書 次に形式は書状の式で、なお日附に年附のないもので、次第に公的意義を持つに至った文書に御内書がある。その実例に就いては、書状形式分類の項に挙げて置いたが、更にここにその形様を説くこととする。とのことです。

官途受領名は整然と変わっている

内容としては頗る乏しいものであるが、文書の充名に書いてある仮名官途受領が何時改まったか、これが右の文書に依って正確に判り、かような人々に充てた文書には、この官途受領が変わる毎にそれが整然と変わっているから、よしその文書の日附に年附を欠いて…

江戸時代に及んだ官途受領の文書

以上列挙したように、この部類の文書の中一行書のものは、その文言は簡単であるが、各々の書式に至っては区々である。文字が少ないために却ってその配置が一定していない。右に挙げたものは一二の例に過ぎない。 この官途受領の文書は、武家の間に於いて主従…

戦国大名の官途受領書出

官途受領書出 なお戦国時代の諸大名の間には、先の名字仮名の書出の如き簡単な一行書或いは又書状式の形式の官途受領の文書を出している。〔四三二〕は天正七年正月廿六日、安芸の毛利輝元が一族穂田四郎元清を治部大輔と名乗らしめるために、〔四三三〕は天…

大内義隆が吉川元春を治部少輔に推挙

先の顕信のものと大体形式は似ているのである。この満頼のものと同じ書式のものは、周防の大内氏が出している。〔四三一〕は天文十八年四月廿二日、義隆が吉川元春をして治部少輔と名乗らしめるために出した文書である。とのことです。 挙敷奏 きょふそう =…

九州探題渋川満頼の受領推挙状

〔四三〇〕は応永七年十一月十八日、九州探題渋川満頼が、豊前の宇都宮掃部助に薩摩の受領名を授けることを京都に推挙する旨を伝えるために出した文書である。之は京都に差し出した文書では無く、推挙する由を書いて本人に下したもので、之に依って掃部助は…

北畠顕信の官途受領推挙状

官途受領推挙状 次に官途受領を推挙する由を書いて出す形式の文書がある。〔四二九〕は興国六年三月廿七日、北畠顕信が、南部信政のために、右近蔵人に任ぜられんことを達智門院に推挙することを記したものである。之に依って信政は右近蔵人と称することがで…

任何々と書く形式

〔四二八〕は天正十五年十月十八日、吉川広家が家臣祖式源三をして九右衛門尉と名乗らせめるために出したもので、任何々と書く形式をとっている。之が一つの書式になっている。かかる仮名には官途も交わっているから、任と書くのも尤もなわけである。とのこ…

上杉輝虎の仮名附与書出

仮名附与書出 次に仮名附与の文書としては、〔四二七〕上杉謙信(輝虎)が家臣嶋倉次郎丸に、仮名吉三と名乗らしめた時のもの、料紙は折紙で礼紙一葉添えてあり、頗る鄭重なものである。とのことです。

源延俊の加冠状

〔四二五〕は応永八年正月源延俊と云う人が、所俊安と申す者に出したもので、之には明らかに加冠状と書いてある。之に依って先の政弘の文書もかく名付けることができる。尚政弘の名の下には花押を欠いている。かかる書礼もあったのである。とのことです。

大内政弘が元服親として一字を授ける

又一字を授けるのは、これに依って実名を付けるのであるが、この実名は元服の儀式と共に定められるものであったから、一字を授ける人が、元服親に当たる形式で、この文書を出すものがある。〔四二六〕に挙げたのは、文明十年二月十二日、大内政弘が安芸の毛…

相模小田原の北条氏直が氏の一字を授ける

次に〔四二四〕は、天正十七年十一月十日相模小田原の北条氏直が、同氏規の子助五郎に氏の一字を授けて氏盛と名乗らしめるために出した文書である。料紙は大高檀紙を用い実に堂々たるものである。当時に於ける北条氏の豪勢が窺われる。とのことです。

筑前守護少弐資元の名字状

即ち〔四二三〕は、永正三年八月七日、筑前守護少弐資元が、家臣横岳彦四郎に名字資の一字を授けて資誠と名乗らしめた時の名字状である。先の大友親世のものと著しく相違した形式をとっていることに注意すべきである。とのことです。