2024-08-01から1ヶ月間の記事一覧
陣立書とは、軍勢の部署と其の進軍すべき次第を定めて書き表した文書である。大抵料紙を竪に用いて書いてある。ここに挙げたのは、朝鮮征伐再度の出勢に当たって、慶長二年二月廿一日、秀吉から軍勢配備進軍の次第を示して、各部将に授けた朱印状に副えた陣…
次に〔五三九〕は、慶長五年七月七日、家康が会津上杉氏征伐のため進軍するに当たって、将士に下した軍法で、之にも日下に家康の印文「忠恕」の小判形の朱印が捺してある。又形式の上から見れば、この部類に入るものに、陣立書がある。その一例を図版に示す…
此部類に入る印判状にも、本文書止めに「何々也」と書くものがある。〔五三八〕以下四通はその例である。〔五三八〕は天正十六年秀吉のかの有名な刀狩の掟書である。当時各領主に之を頒ったと見え、今に諸家に多く伝わっている。この文書には、秀吉のいつも…
〔五三七〕は、前に述べた武田家の官途受領書出しの印判状の一形式を具えたもので、本文の書止めに当たる文言は無いが、やはりこの部類に入るべきものである。先のものには印が本文の始めに捺してあったが、これには日附の下部に捺してある。これと同じ内容…
日附の下に印を捺した例としては〔五三六〕の如きものがある。永禄十二年閏五月廿三日、上野厩橋の北条(きたじょう)高広が同国赤城山に出した制札で、珍しい印判状である。その第一条に、駿河の富士浅間大菩薩が、赤城山小路之嶽に飛び移ったことが見えて…
なお、この朱印を捺した例は他にもある。元和元年家康が、大蔵一覧集を刊行し、之を幕府と関係の深い寺院に納めたた、関東十八檀林の一寺武蔵鴻巣の勝願寺に今に伝わるものに、各冊その第一紙に、この朱印が捺してある。異国渡海の朱印状には、専らこの印を…
〔五三五〕は、遥かに降って、慶長十九年かの大坂冬役に、徳川家康が摂津河辺郡正玄寺の寺内に下した禁制である。この日附は珍しく年号計りで月日を欠いている。かかる例は余り多くない。その慶長十九年の上部に、方二寸九分、重郭、印文「源」の一字を上に…
ろ式 日附が年月日から成り、充所を具えないもの 先づ〔五三四〕は、この部類に入る印判状である。癸卯即ち天文十二年四月十四日、北条氏が鎌倉覚園寺修理勧進を免許するために出した文書で、日附の上部に虎ノ印判が捺してある。先に述べた如く、北条氏の文…
更にこの部類に入る印判状には、物事或いは物の分量を条書に表した内容のものもある。〔五三二〕に挙げたのはその一例で、天正八年七月廿六日、越後の上杉景勝が、その家臣宇野民部少輔に知行を充行うために出したものである。〔五三三〕は、前掲〔図版第一…
而してその書止めに「謹言」と記している。ふつうの書札類では、「謹言」の上に「恐々謹言」、更に「恐惶謹言」と次第に鄭重な書き表し方が用いられたが、この形式に属する印判状は、日附に年号が記してあり、而も差出所が印判のみであって、そこに何等鄭重…
右に挙げた如くこの部類に入る印判状に、本文書止めに「何々也」を用いたものは多くあるが、之は前説書札様文書と同様「如件」と書くよりは、更に鄭重でない書き表し方であった。之と反対に「仍如件」よりも更に鄭重に書き表す印判状もあった。〔五三一〕に…
当時臣下家人に知行を充行うには、かくの如き朱印状を出すのが通例であった。又社寺に領地を寄進し、或いはその領地を所有する権利を保証すること、即ち安堵せしめる場合にも、大抵この朱印状を発している。そこでこの文書を御朱印と云い、又御朱印と云えば…
扨て日下に捺した家康の印は、慶長四年頃から用いた小判形印文「忠恕」の朱黒印を慶長六七年頃に廃して、新に用い始めたもので、朱印と黒印と両様になっている。此印を慶長十三年頃廃して、前出〔五二六〕慶長十九年の知行充行の印判状に捺した小判形の印文…
日下に家康の小判形重郭印文「源家康」の朱印が捺してある。本文の書止めた「何々也」となっており、又充所が差出所に当たる朱印の高さよりも大分低くなっている。下に見下げている形式となっている。かような傾向は秀吉の朱印状等から始まるのであって、こ…
本文書止めに「何々也」の文言を用いた朱印状を出したのは、秀吉に止まるのでは無く、家康も慶長年間のものには同様のものを出している。次に図版を以て示すのはその一例である。 (略) この文書は、家康がその家臣長崎伊豆守に知行を充行うために出した朱…
この朱印状は図版に見る如く、先に挙げた朱印状とその書風を全く異にしている。之は当時秀吉の右筆として専ら外交文書の作成に携わっていた豊光寺承兌の執筆したものである。蓋し外国に出征する将士に与えた檄文であるがために特に承兌をして文を作らしめ、…
(略) 右は毛利輝元に充てたものであるが、何れの将士に出したものも同文と見え、小早川家に伝わる隆景充てのものも、単に充名が相違しているのみである。文中秀吉の小臣より身を起して日本を平定せる功業を説き、今諸士が大兵を擁して処女の如き大明国を伐…
なお秀吉の朱印状は、知行充行い計りで無く、各般の事柄に関して右の如き書式のもので出している。〔五三〇〕は文禄元年六月三日、朝鮮征伐進軍の部署を定めて、諸士に頒った著名な朱印状の一通で、出征将士の一人である筑前名島の城主小早川隆景に充てたも…
〔五二九〕はその一例で、天正十八年八月十日、関東奥州も平定し、海内悉く秀吉の威勢に服した時、庶民取締の条目として五条を示したもので、秀吉の社会統制策がよく現れている文書で、この方面の重要な史料である。尚この文書の充所には、「とのへ」と仮名…
次に〔五二八〕は天正十年五月七日、信長が四国征伐に向かう子息信孝に、征服後の四国処分の意見を伝えたもので、以上挙げた印判状と形式が同じであるからここに挙げたのであるが、以上のものと相違する点として本文の書止めに、「何々候也」即ち也となって…
尚〔五二七〕は、慶長十四年七月廿五日、家康が和蘭国に向けて、同国の船舶が、我が国の諸浦に自由に来航して貿易を差支えなきことを許す為に出した朱印状である。朱印は「源家康忠恕」の五字を印文としたもので、日附の次行に捺してあるが、先づこの形式に…
〔五二六〕は慶長十九年八月朔日、徳川家康が家臣星谷才蔵に知行を充行う為に出した印判状で、日下に小判形印文「恕家康」とある黒印が捺してある。先に挙げた印判状にも日下に捺したものがあるが、右の勝頼、信長、家康の印判状は、同じ日下でも先のものと…
以上挙げた印判状は、大体東国地方の大名のもののみであった。然し印判状は、尾張にた興起した織田信長の上洛に依って、その用いた印判状が、従前かかるものの一般に行われていなかった京畿地方に伝播することとなった。〔五二五〕は、天正三年十二月廿八日…
信玄の没後、その喪を秘していたと云われるから、或いはこの印も信玄の生命の延長として、それと無く勝頼が襲用したように思われるけれども、此頃に至って迄信玄の秘喪が守られていたので無いから、かような推測は当たらない。当時印を父子襲用することは敢…
〔五二四〕は、天正三年九月廿一日、武田勝頼が、遠江小山に於ける徳川勢との合戦に於ける味方の戦功を褒める為に出した感状の一例である。ここに挙げたのは狩野次郎兵衛と云う者に充てたものであるが、尚本文の同じものが数通遺っている。同時に多数出した…
料紙は切紙で縦五寸一分、横七寸五分の小形のものであるが、日附の字面には、径二寸七分正圓、重郭、印文「心簡剛」の朱印が捺してある。料紙の大きさから印が異様に大きく感ぜられる。料紙が小さければ、花押も小さく書くと云う融通性が印の上にはない。虎…
〔五二三〕は、日附に十二支のみを記した印判状の一例で、武蔵岩槻の城主太田氏房(北条氏政の三男)が、老臣宮城美作守をして、遠江国に徳川氏に加勢として出陣するように申し付けた田口新左衛門と申す者に、指揮者大森兵衛大夫小田能登守両人の命令に従い…
而してその地域が安房、上総、下総、武蔵と隣接していることに注意を払わねばならぬ。かような地方的に限られた一つの事実に基づいて、所持者不明の印を、大体地域の関係から何人のものと推定することが可能となることがある。かような形式の印の持主はかく…
(里見)義康は先に図版に挙げた印判状に見るが如き朱印を用いていたが、それとこの黒印とを併用していたのである。この黒印の印文も籠字で、大きさに相異はあるが、上部の龍を除けば朱印と同じ形様のものと云うことができる。先に述べた武蔵鉢形の北条氏郡(…
〔五二二〕は天正十七年九月十五日、(里見)義康が高野山西門と妙音院との、安房上総両国から同山に参詣する檀那の訴訟に関したもので、日附の下に方一寸一分三重郭、印文「義康」の黒印が捺してある。之は一種の宿坊証文とも云うべく、西門院が之に依って…