2024-10-01から1ヶ月間の記事一覧
ほ式 日附が年月日から成り、差出所官氏姓印、充所を具えないもの この形式は〔五六四〕に挙げた信長の印判状に見えるもので、他にその例が無い。この印判状は、天正五年十一月廿七日、山城松尾社の神主等に対して、社領安堵のために出したものである。位署…
に式 日附が年月日から成り、差出所官印、充所を具えないもの この部類に入る印判状の例として、信長のものが比較的多くある。〔五六二〕に挙げたのはその一例で、永禄十一年九月、信長が上洛して直ちに軍勢の狼藉を取締るために、洛中洛外諸社寺に出した禁…
なおこの奥書に、秀吉が特に金印を捺すとあって、事実右の「豊臣」の朱印が捺してある。之に依って、この印が金印であったことが判ると同時に、又文書以外の記文にもこの印を捺したことを知るのである。思うに秀吉の威権が増大するに伴い、特に重要な記文若…
唯文書計りに用いたので無いことは、既に説いた家康の「源家康忠恕」の印と同様である。即ち同じく前田侯爵家所蔵の豊太閤高野詣謡本に捺してある。これは秀吉が高野山に参詣した時の能の謡を、金春大夫が節付けを作り、その外題に忝くも後陽成天皇の宸翰を…
然るにここに挙げた高山国に遣わした朱印状に、右の印と全く異なった印を用いていることは注目に値する。或いはこの印はかかる朱印状に専ら用いるために作ったとも思われる。その大きさは方三寸あり、海外に遣わす文書に捺して、大いに威権を示すに足る印影…
かような形式を実物に就いて知ることのできる誠に貴重な資料である。差出所に日本圀前関白と書き、その下に豊臣の二字を印文とした朱印が捺してある。封の上書に捺した印も之と同じものである。秀吉は既に正圓の朱印を用い、国内に出す文書に印を捺す場合に…
この文書は前説檄文同様僧承兌が筆を執っており、料紙は厚手の鳥子に金箔を以て桜の下絵を書いた極めて優美なものである。その封式ももとのままに残って居る。本紙を巻き巻き終わりのところに糊をつけて封の上書を書いて印を捺したもの、即ち支那朝鮮国から…
前に挙げた秀吉が在鮮将士に与えた檄文と同様、先づ秀吉生誕の奇瑞から説き、朝鮮明国の討伐を起こすや、我が大勝に帰したることを記し、南蛮諸国琉球の如き、年々我に朝貢することを述べ、高山国も此等諸国に倣って我に朝貢の礼をとらんことを促している。…
(略) 秀吉は朝鮮明国を征服せんがために朝鮮に兵をだしたが、又南洋方面にも経略を行わんとし、これが諸国に招諭の文書を出した。右に挙げたものは、文禄二年十一月朝鮮を攻略し、明の援兵を破り、彼より和を乞うに至ったので、秀吉はこの威勢を藉りて、高…
前述の如く室町将軍時代にはかかる文書は将軍が之を出し、差出所は官名と花押とから成り、公文若しくは公帖と称していた。即ち秀吉はこの公帖に於ける花押に代えるに朱印を以てしたのである。これは独り秀吉に始まるものでは無く、既に述べた如く、義政の晩…
は式 日附が年月日から成り、差出所官印、充所を具えたもの この部類に入る文書は、その例が余り多くない。〔五六一〕に挙げたのはその一例である。慶長二年二月廿一日、前関白豊臣秀吉が、守藤集雲を東福寺住持職に任命するために出した文書である。差出所…
次に充所としての例文を具えていない禁制に、この部類に入るべき印判状がある。〔五六〇〕は、その一例で、信濃深志(松本)の小笠原貞慶が、同国大澤寺の門前在家役を免除するために出した文書である。実名の下と云うよりは、その字面に径一寸八分の堂々た…
後世これが支那渡来の糸印の流用とか、或いは路傍から拾った印であるとか云う説が出たが、勿論その信実の程は保証できないが、かっく簡単に説明されるように、始めから堂々たる意図を持って用い始めたもので無いことは確かであろう。身上が如何に昇進しよう…
かくて反って貧弱な印を用いたとも考えられる。従ってその使用が極めて簡単な方法から始まったものとも思われる。即ちこれと云う意図がなく、之に依って権威を耀かせようなどと考えて作った印で無いから、自然請取状とか、忙しい時の花押の代用とかから用い…
秀吉の印は、最初から堂々と印を用いる態度から発したものではなく、極めて簡単に花押の代用と云うところから始まったものと思われる。それが益々秀吉の勢力の向上するにつれて、愈々多くの文書を発することになり、その結果、此朱印を捺して大抵の文書を発…
いま姑くこの部類に収めておく。秀吉の名字の下に印が捺してある。之が実に秀吉の文書に印の現れてくる始めてのものである。かように簡単な文書から見えてくるのは注意すべき点であろう。此後天正十三年小牧長久手の合戦の折、時々この朱印を通例の書札様の…
ろ式 日附が年月日から成り、差出所名印、充所を具えないもの この部類に入るものとしては、〔五五九〕の如きがある。これは天正十一年八月一日、秀吉が摂津兵庫湊の船役銭(月々納めるに依り之を月俸と云う。)を収納した請取状である。この種請取状には充…
後に説く如く大友氏以外に於いても、九州地方に於いては、慶長以後になると所謂ローマ字の印文を具えた印を種々用いた。而して宗麟のものも東国地方諸大名のものに比較して、左程大きくもないが、この人以外の者の印は、皆至って小形であった。龍造寺氏のも…
〔五五八〕はその一例で、肥前の龍造寺政家が、天正十年三月十七日、筑後清水寺の成圓房と申す者に、作事の用として杉材を所望するために出した書状である。政家の下に扇形の小さい朱印が捺してある。実名計りで無く、苗字をも付けている。龍造寺氏に於いて…
更に書止めを「恐々謹言」と書いたものもある。〔五五七〕はその一例で、弘治三年三月十日、信玄が信濃諏訪の千野靫負尉の同国葛山城合戦に於ける戦功に対して出した感状であって、実名の下に龍の朱印が捺してある。余程鄭重な意味が現れている。なお更に「…
書止め「何々也」は「如件」よりも鄭重さを欠いていること、これまで述べた文書と同様であるが、又反対に「如件」よりも鄭重さを表した書き方のものもある。〔五五五〕に挙げたのはその一例で、天文廿四(弘治元)年七月十九日、武田晴信が信州川中島に於け…
〔五五四〕は、秀吉の武将仙石秀久が讃岐に入部し、天正十三年十月、領内社寺に所領を寄進するに当たり、各奉行に其高を知らしめるために出した印判状で、秀久の字面に、方一寸九分五厘重郭、印文に「永楽」と「通寶」と二行に、その行間に「國」の一字を表…
なおこの書式に入る印判状として、〔五五三〕の如きがある。前田利家が、天正十三年六月、越中氷見郡杉屋村の開発に関して出した印判状である。ここに捺した印判は、縦一寸二分、横一寸一分、重郭の黒印で、印文は「利家」の二字から成っている。利家は当時…
而してその書式は、本文書止めは敬語を附けず也で結び、差出所に名字を入れて朱印を捺し、関白殿と殿を漢字にして書し、関白秀次に対して相当の書礼を表している。なお日附の天正弐十は後人の加筆では無く、差出者側に於いて本文と共に記した、即ち附年号で…
文中列記した諸条目は、何れも諸種の史実を見るべき資料となるが、就中第十八条以下五条の記事は、極めて注意を惹くものである。秀吉渡海の上は朝鮮明国を征服し、明後年後陽成天皇に乞うて支那の都へ遷幸を仰ぎ奉り、皇位は皇子、若しくは皇弟八条宮智仁親…
以上は本文書止めに「如件」と書いたものであるが、単に「何々也」と結んだものもあった。次に挙げる印判状はその一例である。 (略) 文禄元年五月二日朝鮮の都京城が陥落するや、秀吉は兼ねての計画通り、自から朝鮮に出陣せんとした。そのため名護屋の本…
之に依って文助に従う十人と馬二疋が各番所を無事通過することができたのである。秀吉が朝鮮進軍指揮のため肥前名護屋に在城中、この二大老が京都に留守をしていたために出した手形であろう。家康は壺形の印文「無悔無損」の黒印、利家は楕円形の印文「利家…
次に特殊な内容を持った文書として左の如きものがある。 (略) この文書の日附の附年号として天廿とあるのは天正廿(文禄元年)の意味である。干支十二支を以て年号数に代えたものは先に北条武田両氏等の文書に就いて並べた通り多くあるが、かく年号の頭字…
但し、大友氏が印文に用いたローマ字には関係が無い。なお〔五五二〕に挙げたのは、慶長十三年肥後熊本の加藤清正が、家臣北里左馬助に知行を充(行脱か)ふために出した黒印状で、差出所清正の下に図に示した如き黒印が捺してある。その印文は「履道應乾」…
之に反してさまで聞えていない筑前の原田了栄(隆種)が、天正年間にこの部類に入るべき印判状を出している。〔五五一〕に挙げたのはその一例で、天正七年十月、家臣下郡藤二郎と云う者に知行を充行うために出した文書である。了栄とある下に、東国地方に類…