2025-03-01から1ヶ月間の記事一覧
(略) この文書の裏面には図版に見る如く花押があるが、之は上杉顕定のものである。この目録は、顕定がその子に伊豆平井郷以下三箇所を譲与する時に作ったものであろう。目録には宛名を書かないのが通例である。ここに顕定の花押を見るに、その形様が如何に…
第一七類 目録 物の所在を明らかにする目的を以て名称分量を記した文書、若しくはものを授受するときの証文として作る文書を目録と称している。先に説いた注進状は、多分にこの目録の要素を含んでいる。目録と称しても、反って注進状と見るべきものが多い。…
〔六五八〕は、寛正二年十二月十九日、醍醐寺三宝院領越前河北庄の庄官が、同院に向け年貢五十貫文を送附した時の送文。但し割符とあるのは為替で送ったことを表しているのである。とのことです。
(略) 此文書は、安芸安摩庄衣多(江田)島の惣公文が、同島から厳島社日供米を送った時の送文である。梶取等にもよく判るように仮名で書いたものであろうか。又同じ日供米を運上した送文にも〔六五七〕の如きものがある。ここに図版に示した送文の料紙は細…
第一六類 送文 送状 物資を送附する時、その物資の分量を明細に注記して、之を通達するために作る文書を送文、若しくは送状と称している。 〔六五六〕は大治五年十一月五日、筑前観世音寺から本寺たる東大寺に年貢米を運送した時の送文である。本文の中に勘…
〔六五五〕に挙げたのはその一例。嘉禎元年十一月十二日、安芸三入庄の地頭惣領熊谷時直と庶子同資直とが三分して、時直が二分、資直が一分を分領するために作った分帳である。これは使者前周防守藤原親實と申す者が作った文書であって、袖に幕府の執権北条…
第一五類 分帳 分文 既に訴陳状の項で記した如く、所領に関して相論した者が、互いに和談して、その所領を中分或いは三分等して分領することがあり、この時各々の分け前を詳細に注記する文書を作る。之を分帳、分文或いは相分状等と称する。 分帳は庄園の領…
第一四類 結解状 結解(けげ)とは事物を勘定することであって、その結果を注記した文書を結解状と云う。中世の文書に結解を遂げるとあるは、勘定をして収支決算することである。 〔六五四〕に挙げたのは、武蔵金澤稱名寺領加賀軽海郷の貞和五年分の結解状、…
次に事柄を処理した結果を報告し、又は状況を検査して報告するために作った注進状である。〔六五三〕は、建久八年八月廿九日、讃岐国使并に官使が、日吉社領同国柞田庄の堺を確定して、その四つの境即ち四至に牓示即ち境の標識を立てたことを報告するために…
〔六五一〕は、正平十二年十月、高野山大門修理用途の注記で、惣勘録と云っている。次に〔六五二〕は、康正元年十二月十五日、東寺諸庄園斗升の増減を書上げた注文である。これに依って当時如何に種々の升を用いていたか、実に驚くべき事実が知られる。との…
〔六四九〕は、天喜三年十二月十四日附、東大寺領若狭国御封の内の絹布の分量を注記した注進状、文中に日記と云っている。日々見聞したことを記す日記以外にかように事物を明細に記すことも、古くから日記と称していたことが知られる。〔六五〇〕は、建保六…
ここに図版として示したものは、貞観十四年三月九日、山城貞観寺三綱が、同寺領田地を明細に注記して目録を作り、別当并に俗別当の証判を受けた文書の末尾である。全文は便宜〔六四八〕に挙げてある。料紙は横に罫線八を引いたものを用い、字面に外印等が多…
第一三類 注進状 注文 勘録状 事物を調査し或いは之を計量して明細に連記し、又事状を詳細に注記して具申するために作る文書を注進状、注文或いは勘録状、又實検状等と云う。なお時代に依り、対象物の如何に依り、種々の名種を以て呼んでいる。 〔六四七〕は…
かかるものとすれば、その文章をその様に書きそうに思われるのに、かかる点が少しも窺われない。恐らく幕府に一旦出したものが、その申出が裁許せられると、その裁許状に副えてこの吹挙状が、申出の人に下附されたものと思われる。かようにして、安堵の申出…
扨てかかる吹挙状は、吹挙を願い出た方に伝わるべき筋合の文書で無いにも拘らず、先の阿蘇大宮司職安堵申請の吹挙状は、同大宮司家に伝わったものである。之は吹挙をした道鎮が幕府へ吹挙状を出すと同時に、申し出た阿蘇家に向かってもかかるものを出した由…
〔六四五〕は、康安二(正平十七)年八月五日能登国守護吉見氏頼が、同国の御家人天野寛誉のその所領能登島御厨東方地頭職安堵の申請を取り次いだ吹挙状である。〔六四六〕は、応永八年十二月廿九日、伊豆国守護代寺尾憲清が、走湯山衆徒等の同国熱海郷闕所…
なお吹挙状の例を示すに、〔六四四〕は、応永廿二年四月五日、九州探題渋川道鎮(満頼)が、肥後阿蘇大宮司惟村の子息惟郷の大宮司職相続認許の御教書を得んとの申し出を、幕府に吹挙するために出した文書である。かような吹挙状は大抵披露状、即ち相手方の…
(略) この文書は陸奥守北畠顕家が、麾下伊賀盛光の申状を、蔵人左近中将中御門宗兼に取り次ぐために出した吹挙状である。建武中興の世となっても鎌倉幕府時代と同様、諸国の武士が京都に在番して篝役即ち夜の警備役を奉仕すべき規定であったと見え、盛光は…
第十二類 吹挙状 挙状 下位の者からの申出でたことを、上位の者に取り次いで吹挙するために出す文書、又下位の者から上位の者に奉る文書を取り次ぐ時に出す文書を、吹挙状若しくは挙状と云う。下位の者から直接上位の者に申し上ぐることの出来ない場合、又特…
終りに〔六四二〕〔六四三〕に挙げたのは、天正十四年小田原北条氏の分国相模高座郡當麻の宿場に関する訴陳状である。当時の訴陳状としては珍しい例と云うべく、申状の式をとらず書札式をとり、充所に奉行申次、或いは評定衆が書いてある。これから近世江戸…
〔六四一〕に挙げたものは応永丗三年七月四日、近江蒲生郡日吉大宮神人小幡住民等が、同郡得珍保内の商人と商売を致すべき地域の堺とに就いて相論した時の訴状であるが、「目安」と書き始め、終りに「目安言上如件」と結んでいる。又目安と称すべき申状であ…
訴陳状は又目安とも云う。蓋し訴陳の内容を一項目毎に書き表して了解し安からしむるように書くところから生じたものであろう。〔六四〇〕に挙げたのはその一例である。元弘三年十二月、南部時長等が、同武行の甲斐国南部郷以下の所領に関する訴状に対して陳…
なお訴状には料紙に折紙を用いて、日附を欠くものもある。〔六三九〕に挙げたのはその一例。興福寺の大乗院龍花院禅定院の葺工久國が、大工の座に関して守次丸の不当を訴えた陳状である。鎌倉時代末期のものであろう。とのことです。
次に綸旨二通を挙げているが、その二通の本文が、申状の本体の次に紙を継いで書いてある。かく具書案がつくと、本体の文書との間に紙継目が生ずるので、この継目の裏に必ず花押を加える。この花押は申状の差出者が据えたものでは無く、訴訟の奉行人が加えた…
かかる場合訴陳の申状は、先づ申立てる趣意を要約して記し、次にその証拠文書を「副進(そえすす)む」と書き、その目録を列記する。而して愈々本文を書いて、日附を以て書き終わる。之を申状の本体とす。次に多くはべしを継ぎそれに先に目録に挙げた具書を…
次に個々の訴陳状として伝わっている二三の例を挙げるに、〔六三七〕は、康暦元(天授五)年八月、左右近府駕輿丁等が、竹商売に関して、内蔵寮方の不当を訴えた訴状の中三度目の問状である。かかる訴陳状には、各自申し立てることの証拠となる文書を添えて…
鎌倉時代以来、殊に武家の訴訟に関する訴状陳状は極めて多く遺っているが、一つの訴訟に関して三問三答を重ねた三訴状三陳状が揃って伝わっているものは多くない。今ここでは室町時代に於ける三問三答の訴陳状の実例を示すこととする。即ち〔六三六〕は、天…
訴訟を起こした場合、必ずしも二問二答三問三答を重ねるとは限らず、中間に於いて和与即ち和解して相論が解消することもある。この和解の契約を示すために、互いに取り交わす文書を和与状という。之は相互の契約に関する文書であるから、後の項に部類を立て…
而して初度の訴状を初問状、二度目のものを二問状、三度目のものを三問状と云い、之に並んで初度の陳状を初答状と云い、次を二答状、次を三答状と称する。又訴状は広く申状と云うので、二度目三度目の訴状を重申状とも云う。なお陳状のことを訴人の申出でに…
訴陳両状を両方から一度出して黒白が決定せぬ場合に、又両者が訴状陳状を出しあい、これを三度迄重ねる。三度訴え、三度之に対して陳ずる次第となり、訴うるは、論人に対し問い訊すことであり、論人は之に対して答えるわけであるから、三度訴え三度之に対し…