2025-04-01から1ヶ月間の記事一覧
次には請文にして充所を具えているものの一例を示すと、〔六七二〕の如きがある。これは、(天正十二年)九月十二日、徳川家康が延暦寺再興の勧進に応ずるよう促された綸旨を受け、之に対して奉った請文である。仰せを拝承せる旨を、蔵人左中弁万里小路充房…
次に〔六七一〕は、貞和元(興国六)年十一月十九日、播磨国守護人赤松圓心(則村)が、幕府から同国福井庄内の闕所地即ち知行主の明いている所領に関する実状を注進するよう命を受け、之に対して知悉せることを返事として上申せる請文である。守護人も屡々…
この文書は、弘安七年七月廿三日、曽我泰光がその母の遺領伊豆安富国吉名内の田地襲領安堵を申請い、幕府からのその知行地の近隣の御家人工藤祐行に知行の状況を尋問したのに対して、祐行から代々知行せることに間違いなく泰光が現在知行しており、之に対し…
次に〔六七〇〕は知行状況尋問とも云うべき尋問に対して出した請文である。既に下知状の項で述べた如く、幕府は御家人の遺領襲領を認可するために、安堵の下文を出すに当たって、この知行地の近隣に知行地を持っている御家人に、その遺領の知行状況を尋問し…
〔六六九〕に挙げたのは、丹波主殿保地頭平孝信と云う者が論人として召喚を受け、陳弁せんがために出頭せる由を申し上げた請文である。鎌倉時代に訴訟に関した文書は数多くあるが、論人出頭の請文の伝わるものは極めて少ないようである。とのことです。
次に訴訟のため、論人(被告)としての召喚を受けた時出した請文を示すと、左の如きものがある。 (略) 東寺領信太庄雑掌定祐から、同国塙郷の年貢等に関して、地頭北条伊時を訴え、この訴訟に対して、論人たる伊時に陳弁すりょう督促があったので、伊時が…
次に武家の人々の請文一二を挙げる。 (略) この文書は、前編に収めた八幡筥崎宮御神寶記の紙背となっているかの異国征伐軍勢注進催促に対する請文の一例である。当初御施行とは、肥後守護代(秋田泰盛の子盛宗)が幕府の命を施行した文書、それが到来した…
なお請文の封式を見るべきものに、〔六六七〕の如きものがある。これは本紙礼紙二枚を巻いて切封として封じ、本紙の差出所と同じく名字のみが書いてある。即ち腰文の式をとっている。而して請文即ち返事であるがために、その上書にも充所を欠いている。これ…
次に命令を受けて、その履行せんとする返事を申し上げた請文の一例を示すと、〔六六六〕のごときがある。これは明法博士坂上明盛が、丹後国三箇庄内大石庄の請所の事に関して出した請文、勘仲記の筆者の料紙に裏を返して用いてあるから、恐らく筆者勘解由小…
更に諸役を仰せ付けられ、畏まって御受けせる由を申し上げた請文の例として〔六六五〕の如きがある。之は、内匠頭橘清則と申す人が、皇后宮の御産の鳴弦役を命ぜられた時の請文である。始めに「謹請(うく)」と書くのはこの種請文の例式となっている。書き…
(略) この文書は、将軍源実朝が、越前国小山泉庄地頭代官を改替する旨を申すために出した請文である。小山泉庄は、京都の権門勢家の所領であろう。 前の頼朝の請文には、本文書止めに「頼朝恐々謹言」とあったが、之には単に「謹言」とあり、日付の下が官…
元来花押は、実名草名を書くに代わるべきものであった。然るにこの頼朝の請文には、実名が書いてある下に、更に花押が据えてある。元来自筆で書くべき書札様の文書に、実名が書いてある上に、花押を加えるのは、自然のやり方とは考えられない。これは自筆で…
(略) この文書は、源頼朝が後白河法皇の院宣に答え奉った請文である。高野山大塔の料所に、法皇から寄附せられた備後太田庄に関して、家人土肥實平の知行を停止する旨を申し進めるために出したものである。本文に披露せしめ給うべしとあるは、院の別当藤原…
上の図版に挙げた忠通の請文にては、実名若しくは草名を加うべきところに明らかに花押が据えてある。之は実名から草名、草名から花押へと移った順序を示すもののように思われる。然し当時花押が用い始められたが、実名、草名、花押三種の用い方に、それぞれ…
次に書札式に書いたものを挙げると、左の如きものがある。 (略) この文書は、関白藤原忠通が、兄前摂政忠実から或僧の法眼の叙位執奏の依頼を受け、之を諾せる由、なお、忠実のよりも申し上げたならば宜しからんとの旨を執次がれたき由を、忠実の側近の者…
〔六六四〕は、降って長寛二年七月十六日、高野山領紀伊神野御庄住人等が、金剛峯寺が命令を下すために出した下文の旨に対して上った請文である。書き始めのところは、謹みて請け奉る大衆の御請文の事と訓むべきで、金剛峯寺の大衆に奉る請文の事と云う意味…
〔六六三〕に挙げたのは、解文の系統を引く形式をとった請文の一例。長元九年正月廿一日、京都采女町刀禰等物部清武以下から、検非違使庁が符を以て博奕の輩を禁止すべきことを命令したのに対して、坊内に博奕をする者があったならば、それを捕えて差し出す…
右は、請文の書式の大体を示したに過ぎない。請文の差出者又その内容から見れば、書状消息と同様、実に千種万別であって、その大要もここに挙げ尽くし難いから、今は唯右に述べた二様の意味に分けて、各その二三の例を挙示するに止めて置く。但し請文の内容…
請文は右の如き性質のものであるから、取り交わしたものが極めて多かったと見え、今日に伝わるものが少なくない。これ等の文書の形式を通覧すると、古く公式令にその様式を示してある解の系統を引く書式をとったものがある。これには勿論充所を欠いている。…
第一八類 請文 請文とは既に書札様の文書の項で述べた如く、広く文書を受けた時、その返書として出す文書の意味を持っている。命令を受け若しくは尋問を受けた時、之に対する返答として出す文書の如きも、この意味の請文である。又或る事を発意して、それを…
次に〔六六二〕に挙げたのは、羽柴秀吉が右の銀子目録を納めた光秀を仆して主君信長の仇を報いた後に、大徳寺に信長の菩提を弔うために、その作善料として寄進した物の目録である。之には鄭重に充所が書いてあって、書札の式をとっている。とのことです。
次に物を進上する時、若しくは之を附与する時に作った目録も多く伝わっている。その一例を図版に示すと、上の如きものがある。 大徳寺 銀子 百枚 日向守 天正十年六月、明智光秀が織田信長を弑した後、京都諸寺院の援助を請うために、銀子を進上したが、上の…
〔六六一〕は、貞治二年四月円覚寺塔頭仏日庵の什宝を明細に記した目録で、本文の中に公物目録と書いてある。禅宗寺院の什器の目録は目録と云わず、多く校割帳と呼んでいる。之に依って厳重に什器の引き渡しを行っていたのである。とのことです。
文書の所在を明らかにし、又それを授受するために作った目録は、極めて多数伝わっている。〔六五九〕はその一例、元亨四(正中元)年三月十三日、薩摩島津伊作氏の重書目録である。次に道具の目録も多く伝わっている。〔六六〇〕は、長承二年当時御影堂の道…