2025-05-01から1ヶ月間の記事一覧
〔六九八〕は、建武二年十月廿二日、東大寺衆徒が、別当信聰の停廃に関連して、信聰が衆徒に朝敵陰謀のありしことを公家に上申せるを不当として、特に嗷訴を起こした時の事書の草案である。次に〔六九九〕は、建武二年五月二十五日、東大寺造営の勧進の事等…
第二五類 事書 寺院の衆徒等が上位の者に向かって、事を申請する場合、前記申状を出すことは通例であるが、特に強く意志の貫徹を図る形式として、衆徒が群議即ち寄合い僉議の結果たる所謂決議文とも云うべきものを提出することがある。この決議書を事書と云…
次に〔六九七〕に挙げたものは、建徳元年十二月晦日、通恵聖院成助と申す僧が、聖朝安穏天下泰平并に某家繁盛のために長日即ち一年中を通じて修した祈祷の巻数である。巻数には前に挙げた例の如く、或る期日を限って修した時のものと、一年中を通じて修し、…
第二四類 巻数 寺院に於いて祈祷或いは護摩を修したる後、これが印を願主に示すために作る文書を巻数と云う。 〔六九六〕は仁平四(久寿元)年正月十四日から二七日、公家の御為めに愛染王法を修した時奉った巻数の案である。解の式の文書となっている。之を…
〔六九三〕は、降って応仁二年五月八日、安芸の毛利豊元が、京都北小路烏丸に於ける軍功を注進したもの、合戦太刀当注文と書いてある。証判は東軍の大将細川勝元の加えたものである。〔六九四〕は、永禄六年吉川元春が、出雲島根軍白鹿要害并に熊野表に於い…
次に一の合戦に於ける戦功を詳記した例を挙げるに、〔六九二〕は、正慶二(元弘三)年潤二月廿七日、安芸三入庄地頭熊谷直経の合戦手負注文である。同月廿六日河内千早城攻めに従軍し、大手の北堀に於ける戦功を注記せるもの、手負の箇所が詳に表しており、…
なお日記体に記載したものを挙げると、〔六八九〕は、元弘三年五月十日、播磨大山寺衆徒が、同国の赤松円心(則村)の許に出した軍忠状、則村が袖に証判を加えている。袖に証判を加えるのは、奥に加えるよりはその人の地位が高い事を示しているものである。…
正しく軍忠状と認め得るものは、鎌倉時代には現れていない。元弘一統の合戦から現れ、吉野時代のものが最も多い。室町時代中期以前に於いては、前記二種の中、日記体のものが多く、中期以後に於いては、殆ど一の合戦に於ける軍功を詳細に記したもの計りであ…
広く軍忠を注進した文書には、各々の合戦に於ける戦功を日にかけて日記体に記したものと、一の合戦に於ける戦功を詳細に記したものとの二様がある。後者には味方の討死手負即ち負傷の状況、或いは敵方を討ち取った数等を詳記してあるので、この文書を合戦手…
戦国時代に拾い首と云い、主のわからぬ頸を拾って来て、まことしやかに己の戦功に申し立てることは、武士の恥辱とされていた。かの朝鮮征伐の時、我が将士が多数の敵の鼻を削いで秀吉の許に送ったことは、諸家の古文書の中に鼻数請取状のあることによって知…
五月十一日に御方に馳参るとは、義貞が北条氏討伐のために上野国に義兵を挙げて武蔵へと南進して来たその軍勢に参加したことをいう。尋で十五日の武蔵府中の南方分倍ケ原の合戦、それから鎌倉に討入り、同地の前浜一向堂の前で奮戦した軍忠を注進するために…
第二三類 軍忠状 軍忠状とは、地頭御家人を始め武人が従軍し戦闘に加わり、その軍功を注進するために上る文書を云う。ここに図版として収めたのがその一例である。 (略) この文書は市村王石丸なるものが幼稚であったから、その代官たる後藤信明が差し出し…
右二通は、奉行人に披露を請う形式を有し、書札式に鄭重に書いてあるが、単に人名を連ねて、馳参った人数を報告している形式のものもある。即ち〔六八七〕に挙げたのはその一例である。元弘三年六月七日、信濃国御家人市河助房代助泰が、新田義貞の許に馳参…
なお着到状の例二三を挙げると、〔六八六〕は、元亨四年即ち正中元年十月三日、和泉国御家人和田助家が、六波羅北方にだしたもので、証判は北方範貞が加えている。この年九月十九日、六波羅探題が、美濃国の住人土岐頼兼、多治見国長等の討幕の計画を知って…
(略) これは肥後国阿蘇家の一族上島惟頼が、かの元弘一統の折京都に馳参って忠勤を抽でんことを、足利高氏の奉行所に上申した着到状である。之に対して高氏が「承了」、即ち承知せる由の返事を奉行に書かしめて、花押を加えて、本人のところへ返したのであ…
第二二類 着到状 地頭御家人等が、不時に参集の命を受け、或いは変事の突発を聞いて、逸早く馳参って、何日から何日迄従軍したとか、或いは宿直したということを上申するために出す文書を着到状という。参集の命を受けて出すものは、前項に述べた請文の中に…
扨て上に挙げた返事は、差出者が自からの返事であるか疑わしい。此等は何れも将軍家の返事であって、それを執権連署管領が直接出す即ち直状の形式で出したものと思われる。実は奉書の一種と見るべきである。室町将軍家に於いては祈願所に祈祷を依頼する場合…
次に〔六八五〕も右と同じ書式の返事である。之は(享徳三年頃)室町幕府の管領細川勝元が東寺の祈祷せる巻数に対して出した返事である。東寺から毎月その月の巻数を一一送っていたので、勝元からも大抵月の廿日に返事を出している。之を受け取った東寺では…
(略) この文書は、京都六波羅探題北条重時が、安芸厳島社から巻数を送ったのに対して出した返事である。料紙は折紙を用いている。〔六八四〕は、貞永二年四月、鎌倉幕府の執権北条泰時連署同時房の両人が、東大寺の大般若転読の巻数を送れるに答えるために…
第二一類 巻数返事 社寺に於いては、祈祷を致せる印として巻数を願主に送る。願主は之を請取った返事を送るのが一つの慣例となっている。この文書は大抵書札の書式をとっているが、返事という点で、先に記した請文と頗る近似している。仍て今便宜請文の終わ…
なお打渡状は、打渡す者が両人の場合、右に挙げた例の如く連署状で出しているが、両人が別箇に出しているのが、寧ろ常例となっている。〔六八二〕〔六八三〕に挙げたのはその例である。康安二(正平十七)年四月廿日、古尾谷刑部大輔入道の中間眞正と、高坂…
之は遺憾ながら賊軍に降参した例であるが、官軍に帰伏した者に対しても同様であった。当時軍勢を味方に招くために出す催促状とも云うべきものに、味方に参れば本領安堵相違有る可からず、即ち所持している所領全部を安全に保持せしめると書いてあるのは、右…
四 第二十類 渡状 打渡状 所領を人に渡付すべき命を受けた人が、之を其人に渡付した由を、返事として申すために作る文書を渡状若しくは打渡状と云う。前第三部に於いて既に述べた施行状遵行状に応じて、地元に於いて使者、若しくは地元の沙汰人が出す文書が…
次に他の一に、返事であることが明瞭に書き現してない形式のものがある。〔六八〇〕に挙げたのはその一例、これは京都の久我家の所領相伝に関して、執権赤橋守時連署北条茂時が将軍家の仰を承って奉った請文である。之には御沙汰に対する返事の意味が明らか…
請文奉書と云うべきものを分けると大体二様になる。その一つは、返事の意味が明らかに書き表してある。右に図版に挙げたのはその一例である。 (略) 高野山の衆徒が公家に其大塔領備後太田庄に対する地頭の非法を訴えた。そこで京都から其訴状たる解状を幕…
第一九類 請文奉書 以上記述した請文は、文書の差出所に現れた人が直接出した意味のもので、奉書の意味のものは無かった。請文にもこの奉書の意味のものがある。鎌倉幕府に於いては既に記述したように、執権連署が将軍家の仰を奉って御教書を出していたが、…
次に〔六七八〕は、文明十九年四月廿五日、播磨国福井庄の名主百姓等が、その領主吉川経基の家臣に対して出した請文、今英賀同光明山并に松原の陣中に名主百姓が出仕しているが、何時と雖も更に陣替がある時は、庄内の百姓を悉く招集して従軍し忠節を抽づる…
次に〔六七七〕は、応永廿六年十月九日、京都市中の酒屋信性と申す者が、酒麴の室を破壊せる由を申し上ぐるために出した請文である。当時北野天満宮の神人が、幕府から酒麹商売の特許を得ていて、他の者は麹室を作ることはできなかった。然るにこの信性等は…
次に〔六七六〕は、文明十一年六月十六日、東寺の末寺珍皇寺執行宗賢が、同寺七月会料のことに関して東寺雑掌に向けて出した請文である。宗賢はこの会料を如何に納むべきかを雑掌に対して引請けたのである。かかる請文を、端裏にあるしてあるように請口(う…
次に始めから引請けるために出した請文の例を示す。〔六七四〕は正安二年七月廿一日、東大寺領伊賀黒田庄下司大江泰定が、その父の時召し上げられた下司職に補任せられたので、今後は寺家のために忠誠を致すべきことを引請くるために出した請文である。之に…