史料編纂所の貴重な影写本

第三章 第四節 第五項 明治維新以後に於ける古文書の蒐集 です。

明治維新の際、社寺に伝わる御朱印類は、悉く政府に差し出すことになりました。御朱印類とは、幕府から社寺領の寄附、もしくは将軍の代替の続目安堵のために出した判物、朱印状のことです。引き上げられた朱印状は、後年大蔵省の保管となり、次いで東京帝国大学附属図書館の所蔵になりましたが、関東大震災で焼失しました。このほかに静岡県東照宮には、駿河遠江両国社寺の朱印状類が伝わっているとのことです。なお埼玉県大宮旧社家西角井家には、先代が嘗て処分した朱印状を購求したものを多数伝えているとのことです。

維新後制規の上から社寺を離れたのは、この朱印状のみであって、他の古文書には、何の変動もありませんでした。ですが、廃仏毀釈のこともあって、消滅したり、散佚したりするものも少なくありませんでした。一方維新早々修史の事業が起こり、古文書が資料として尊重されることになりました。

明治二年三月、東京九段坂上の旧和学講談所に、史料編輯国史校正局が設けられ、その後明治十年一月に太政官に修史館が設けられました。明治十三年十月には以前紹介した薩摩の伊地知季通が、修史館に薩藩舊記を献納しています。

明治十八年には、編修副長重野安繹博士の発案で全国に古文書採訪が企てられました。

明治十八年 重野博士 関東六県

明治十九年~二十二年 編修星野恒博士 中部地方近畿地方

明治二十年 編修久米邦武博士 九州地方

明治二十一年 重野博士 兵庫県南海道地方

このときの採訪においては、多くは原本を東京に借用し、これを写して、持主に返却しました。強靭な薄い雁皮に影写したもので、字体、書風、花押、印章等、原本通りに写したものでした。影写は吉宗時代、青木敦書の採訪したときに行っていますが、今回は一層緻密なものでした。

この間、明治十九年一月に修史館は廃されて、内閣に臨時修史局が設けられました。その後臨時修史局も廃されて帝国大学に臨時編年史編纂掛が設けられました。明治二十三年内務省地理局地誌課の事業が帝国大学に移り地誌編纂掛となっていたものが、明治二十四年に臨時編年史編纂掛と併わされて史誌編纂掛と改まって帝国大学文科大学に属することになりました。その後一時中止を経て、明治二十八年四月に史料編纂掛が設けられ、その後改称して、今日の史料編纂所となりました。

史料編纂所の編纂、出版しつつある大日本史料、大日本古文書は明治時代以前から伝わった史料と、明治以降新たに採訪蒐集した新史料とをもって編輯しています。史料編纂所備付の古文書集ならびに古文書の複本は、現在まで我が日本に伝来した古文書の大体を網羅しているといってよいとのことです。大部分は古文書の複本であって、その数は20万通と称せられているそうです。

現今我が國に於ては、西洋諸國に見るが如き、古文書館と稱する古文書を収蔵陳列して、學者の研究に供へる設備は無い。

これは現在ではあるといってよろしいでしょうか。

史料編纂所架蔵の影写本を通覧すれば、凡そ我が国伝来の古文書を大観することができる、要するに、史料編纂所架蔵の影写本は、我が日本に古来から伝わった古文書の全貌を窺い知ることのできる実に貴重な資料なのです。と、だいぶ熱が入ってますね。

このあと、影写本の図版が掲載されています。著者の地元小田原の北条氏から青木氏に宛てた虎ノ印判状が紹介されています。

最後の一段落は、 次の章・節・項へのつなぎ・予告の文章であることが多いようですね。このブログの「いよいよ本編に入っていきます」のところでもでてきましたね。