木契も一種の文書

第四類 勅符 に入ります。

勅符は、勅命を急速に大宰府・諸国司などに伝えるために出す文書です。公式令にその書式が飛驛下式として定めてあるとのこと。飛騨?と思ったら飛驛ですね。ひえき、かしきでいいのでしょうか。これに対応して諸国から勅符による指令を仰ぐための文書の書式を飛驛上式という。

勅符の古いものは残っていない。寛永二十年に後光明天皇即位のために固関(こげん、三関を閉すこと)を命ずる書式が唯一のもの。内印が三顆捺してある。三関とは、伊勢鈴鹿、近江逢坂、美濃不破のこと。

類聚三代格ならびに平安時代の公卿の日記などに、勅符のことが散見されている。〔一五〕後白河天皇御譲位勅符は、兵範記のもの。

固関の勅符は、内記が上卿の命を受けて書き、料紙は黄紙を用いた。上卿から蔵人の手を経て奏聞する。御画日御画のことはない。請印すなわち内印を捺して、日附に時刻を附記する。木契というものが伴われる規定であった。使者の下向について勅符と同時に官符もでて、使者に驛鈴を賜った。

木契も一種の文書とみるべきである。一個の木片で、例えば「賜近江國」と上卿が記し、これを二分して、一片を太政官に留め、他の一片をその国に下した。後日、関を開くとき、その使者が太政官に留められた一片を携行し、開関の命令を伝える証拠とした。

木契の形状はいかなるものか、山槐記に前記〔一五〕の際のものが図示されている。実物の古いものはおそらく伝わっていないだろう。前記後光明天皇即位の時に作った木契がいま近衛侯爵家に伝わっている。とのことです。