国司の遥任の制度が著しい時代には、在国の留守所から被管にあらざる所に牒を出している。〔三六〕は、紀伊国留守所→金剛峯寺。多くはない。
郡司からも牒を出した。〔三七〕は、大和国添上(そうのかみ)郡→同国使。これも多くない。
令外官のものとしては、〔三八〕は、蔵人所→和泉国。〔三九〕は、検非違使庁→諸国衙。第一一図は、記録所→東大寺。〔四〇〕は、武者所→河内国。記録所・武者所の牒は相田先生の管見において唯一のものだそうです。令外官からは、官司に向かっても出している。牒を用いる範囲が広くなってきたのである。
第一二図及び次号文書は、雑訴決断所→紀伊国衙と雑訴決断所→紀伊国守護所との両所に向けて出している。これによって国衙と守護とが両立していた事実を知る。とのことです。