宣命体の解

畫指は無筆の者が行ったものであることは、戸令の明文によって疑うべきもない。しかし鎌倉時代の初期、文治年間のものを最後として、畫指のある文書は、今日遺存していないらしい。この時代から無筆者はいなくなったのかというとそうではない。別の方法が案出されて畫指に代わるに至ったのである。それらの実例は後項で、その署判の見える文書を挙げて説くこととする。

第一八図、個人が出した解である。中宮舎人下総国海上郡の国造他田日奉部直神護というものが、先祖から同郡の郡司に補せられていたこと、ならびに自らも資人舎人として三十一年間奉仕した功労により、父祖の跡を襲うて、同郡司の大領に任ぜられんことを請うために出した文書である。このような申請状としても珍奇な文書であるが、その文章が宣命に専ら用いられた宣命体の文体を取っている点は、当時この文体が宣命ばかりでなく、広く他の文書にも及んでいたことを示している。日附も宣命と同じように特に記していない。なお、この文書は、国造と郡司との関係を見るべき重要な史料である。とのことです。

この文書は、佐藤進一『古文書学入門』では、p.73~74で取り上げられています。