鎌倉に居住した源義朝

相模国鎌倉郡内鎌倉館に居住していた源義朝が、隣接する高座郡内にある大神宮領大庭御厨内鵠沼郷を郡境を超えて鎌倉郡内と号して押妨を致し、その部下清原安行等が、厨内の伊介神社祝荒木田彦松以下神人八人に刃傷を加え、彦松の頭を打ち破り万死に一生の重傷を負わしめた。ここにおいて厨の神人等は、この狼藉を大神宮禰宜に注進し、禰宜より更に祭主大中臣清親に注進し、清親より太政官に解文を上ってこの由を訴えた。これに対して太政官から義朝の濫行を不当としこれを停止し、犯人を差出さしめ、流血を以て清浄なるべき神領を汚したので、大神宮の例に任せて清祓を致した後、供菜運上の勤を致すべきことを大神宮司に通達したのである。

大神宮御厨に関する貴重な史料であることは勿論であり、その土地の歴史地理に関する資料として、また特に源義朝が鎌倉に居住し、豪族として威権を擅にしていたことと、のちにその子頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由を、右の事実に求めうること等、武門興起の情況を窺うに足る史料としても、実に重要なものというべきである。とのことです。