国印を捺した庁宣は、過渡期の現象

さてこの庁宣には国印が捺してある。これは前項に説いた宣旨と対比して注意を惹く点である。庁宣にして国印を捺した初見は、天喜元年六月五日附、安芸国司が同国高田郡に出したもので、安芸国印が三顆捺してあり、次いで天喜四年伊賀国司が、同国黒田杣司に出したものには、国印が十顆捺してあり、次に前掲図版の康平六年の石見国司の出したものにも、前述のごとく印があり、また〔八三〕に挙げた延久元年閏十月十一日、伊賀国司から同国東大寺領玉瀧杣に下したものにも、国印八顆が捺してあり、また承暦年間に至る庁宣にも、悉く国印が捺してある。しかるに鳥羽天皇の天仁年間以後に至ると、庁宣にして国印を捺したものは無い。すでに天仁年間よりも前、永保三年十二月廿日附、伊賀国司から同国柘殖郷収納所に下した庁宣に国印を見ない。天仁年間以後のものとしては〔八四〕に挙げた仁安二年七月、備後国司庁宣のごとく、国印の無いものが通例となり、いわゆる院政時代中期以後は、国印が庁宣の紙面から全く影を消していると申して差し支えない。

この庁宣と国印との間に現れた関係は、古い官印の制規が漸次衰えてきた経路を示すものということができる。庁宣は国符に代わるべきものであった。しかしてこの国符には必ず国印を捺すべきものであった。したがって庁宣にも国符に準じて国印を捺したものであろう。それが漸次一般の下文に捺印を見ない傾向と歩調を合わすようになって、捺印の無い庁宣と固定して来たと見るべきである。すなわち国印を捺した庁宣は、いわば過渡期の現象を示すものと云えるであろう。とのことです。