大隅国臺明寺の境内に生える笛用の竹

蔵人所嵯峨天皇の御代に置かれ、蔵人は禁中に於いて側近に奉仕し、御書籍衣服調度の事を掌り、のちには先に述べた宣旨の項で記したごとく勅旨の伝宣に携わった。また蔵人所は朝夕の供御の事も掌っていた。ここより出した下文はあまり古い時のものは伝わっていない。〔八七〕に挙げた文書は、延久三年十一月四日、山城田原小栗栖司等に下した下文であるが、その初見である。右の図版に収めた文書は、供御の物に関して大隅国の臺明寺に下したものである。同時は天智天皇御代から勅願の霊場と伝え、既に平安時代から、蔵人所供御の料として御笛の竹を貢納していた。この召物を徴収するために下る使が先例を無視し、新たに徴納の使の寺僧に対して煩をかけたので、寺僧からその不法を訴えた。この訴によって、召物使すなわち徴納の使の寺僧を煩わすことを止め、在庁官人と寺僧等が、よく先例を守って御笛の竹を進納するように取り計らわしむるために出した文書である。大隅国は九州の南端にあり、気候温暖にして竹林がよく繁茂し、この臺明寺境内に、笛を作るに適していた特殊の竹が生長し、同寺から蔵人所に向かって供御の料としてこれを進納していたのである。この臺明寺の貢納の竹に関する文書は、平安時代末期のものがあるが、それが蔵人所に納むる関係から、右に挙げたごとき下文がでることとなり、これが幸い今日に伝わっているのである。とのことです。