第四種 院宮下文
い 院庁下文
可停止平惟綱妨任預増證下知、令致沙汰下司職事
右、預大法師増證解状云、當御庄者、為相伝料、敢無相論、依以券文、寄進最勝寺御
料之間、下司清原家兼依致無道沙汰、池田宗里為讎敵、去五月十五日、被殺害畢、其
後平惟綱号有家兼譲状并文書致濫吹、押取遺物、擬執行庄務、尤無其謂、者(てへれ
ば)早停止彼惟綱之妨、任増證下知、可令致下司沙汰之状、所仰如件、公文等宜承知
、不可違失、故下、
天養二年七月九日 主典代主計權助因幡権介皇后宮大屬大江朝臣(花押)
別當權大納言藤原朝臣(花押)
内蔵頭兼伊予守皇后宮亮藤原朝臣(花押)
權右中辨藤原朝臣(朝隆)(花押)
平安時代の末期いわゆる院政が始まり、院政を行わせらるる上皇法皇の許に院庁を設け、ここにおいて院務を執ることとなった。この院庁からも下文を出した。前掲の図版はその一例である。鳥羽法皇の院庁から、最勝寺領信濃国小川庄公文等に下して、平惟綱の同庄に押妨を致すを止め、預所増證の命令に従って、下司職の務を果たすように伝えたものである。日附の下と次行とに、別當以下の院司が位署を加える形式となっている。とのことです。