仰の主、太政入道殿は平清盛

右の国司下文は、国守が在国して出したものか、京都に居って下したものか明らかでない。〔一〇八〕に挙げた文書は、治承元年九月、長門国留守所に充てたものであるから、国司の出した下文と認むべきである。書止めに近い例文に、依太政入道殿仰、下知如件とある仰の主は平清盛である。従って日附の次行に署判を加えた者は、国守若しくは清盛の家の家司であって、この人が国の領主たる清盛の仰を奉って出した下文とみるべきである。

嘉祥寺領河柵庄官から、国司の在庁の官人有遠と申す者が、庄民に年貢を領家に納めず、その代わりに加納すなわち国衙に納める一定の分量以上に附加して納めるように命じたため、百姓が安堵せざる趣を訴えたので、国司がこれを聞き届け、国司の使者の同庄に入るを禁じ、庄家を煩はすことを止めるためにこの下文を出したのである。とのことです。