北条時行の乱の勲功賞としての下文

鎌倉幕府の滅亡後、この式の下文は如何になったかというに、足利氏に於いては、先代の時の如く引続きこれを用いている。即ち〔一三四〕に示した如く、元弘三年十二月廿九日、尊氏は安保光泰を信濃国小泉庄内室賀郷地頭職に補任するためにこの式の下文を出している。尊氏の用いたこの式の下文の初見である。しかし尊氏がこの式の下文を多く出すようになったのは、建武二年北条時行の乱を鎮めんがために関東に下向し、これを平定して、その勲功の賞を充行うに当たって出した同年九月廿七日附のものからである。爾後尊氏は恩賞として地頭職以下の所領の充行いに限ってこの式の下文を出している。即ち文書の内容は、鎌倉将軍家のものと同じであった。而してその形式は遠くは頼朝の早い時代のものと、近くは父貞氏のものと系統を同じくする下文を出していたのである。とのことです。