譲状の外題安堵状

「(外題)任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、

      元亨二年十一月廿日   相 模 守(北条高時)(花押)

                  修理権大夫(金澤貞顕)(花押)」

ゆつりわたす、あきのくにをわさのほんしやうえたむらのうちをゝつかめかはらを

は、わうくまにゆつりたひ候ぬ、よのこともたのさまたけあるへからす、

ひんかしはえたのみやのはゝすへのわたせをかきる、

みなみはたかのすのみねいわつきへつゝきたるみねをかきる、

にしはいちきをかきる、

きたはいちきみさかかんひきのこしをふんにかきる、のちのせうもんのために、ゆ

つりしやうかくのことし、

  元応元年十月三日

                 きんかはの二郎入道一心

                         (花押)

 

この文書は、安芸国御家人吉川一心経高が、その子王熊丸(経長)に、安芸大朝本庄枝村内の大塚、妻鹿原を譲与するために与えたもので、之を譲状という。この時代の御家人の譲状は大抵自筆で書く習慣になっている。この譲状も経高の自筆と認められる。御家人の譲状には、この文書のように平仮字を以て書いているものが少なくない。御家人等は自筆で書くと自然仮字を用いるようになったもののようである。この事実によって当時の御家人の文筆に於ける素養、延いては武家社会に於ける教育状態も推想することができる。とのことです。