佐藤進一氏の「鎌倉幕府訴訟制度の研究」に據る

なお下知状は、裁許状として出る計りでなく、禁絶すべき事項を衆庶に知らせる禁制として出ることもある。〔一四七〕はその一例、文保三年三月十六日、高野山金剛三昧院領播磨在田上庄の殺生禁断のために出した下知状である。内容は異なっても、書式に異なるところはない。但し、ここに例示したものは案文である。

 なおまた下知状は、執権連署の奉って出すもの計りで無く、奉行人が奉って出すものもある。〔一四八〕はその一例で、永仁三年七月廿九日、大工宗仲と申す者と、薩摩の島津久長の代官景光との、将軍家の邸宅造営用途に関する相論に対して、政所奉行の出した裁許の下知状である。とのことです。

 

〔一四八〕の註に、

この文書が、政所奉行衆の出したものであることは、佐藤進一氏の「鎌倉幕府訴訟制度の研究」に據る。

とあります。p.81とp.244に載っています。