将軍職に事があったときに出す下知状

鎌倉時代以後、下知状は如何になったかと云うに、足利将軍家の執事高師直が、仰を奉って下知状を出している。〔一五〇〕はその一例、暦応四(興国二)年八月七日、山城大山崎神人に対して、八幡宮内殿燈油料荏胡麻の関所料免除の裁許に関して出したもので、書式は鎌倉時代のものと少しも異るところは無い。

それから足利義満の時代には、将軍から出す袖署判の下文に代るものとして、管領細川頼之が下知状を出している。〔一五一〕は、応安三(建徳元)年十一月十二日、肥後の小代詮重に、同国岩原村を充行うために出したもので、

他の一例〔一五二〕は、足利義持の没後、未だ義教が将軍職に就かなかった間、管領斯波義淳が、正長元年十一月廿五日、和泉松尾寺と薬師寺との同国惣講師職に関する相論に対して出した裁許の下知状である。

〔一五三〕は、義教が仆れた後、嘉吉元年九月廿九日、その敵播磨の赤松氏を討伐の際、管領細川持之が同国松原八幡宮に掲げた禁制である。鎌倉時代と同様禁制にも下知状を用いている。

室町時代の下知状は、知行の充行のものでも、之を下文と云わない。将軍職に事があって、将軍から直判で出る下文、或は御判の御教書を出し得ない場合の代用として、この下知状がが出ていたと見られるのである。然し之も八代将軍義政の初めの時代で終りを告げている。とのことです。