下知状、戦国時代の文書へと移って行かなかった

室町幕府奉行以後の下知状は、更に戦国時代諸大名の文書へと移って行かなかった。下知状は奉行衆の下知状の後はそのまま廃れたのであるが、徳川幕府の時代となり、その初期京都所司代が、商人に商売上の特権を許す為めに、若くは禁制に下知状を出している。下知状がここに復活したのであるが、それは最早前代程著しい文書ではなかった。

尚おこの下知状の異式のものとして、〔一五八〕に挙げた如きものがある。之は武士が高野山領備後大田庄に対して乱妨をするのを停止する為めに出した文書である。奉者の位署が無い。右兵衛督の旨を奉って出したのであるが、右兵衛督即ち一條能保が袖判を加えた人である。能保は文治二年三月、北条時政に代って、京都を守護した人である。かかる地位から右の如き文書を出したものであろう。然し之と同形の書式を具えた下知状は他に見るところが無い。之は次の項に説く、下文の変形した袖署判の下文に類似すると云うべきである。〔一六二ー一七三〕を参照すれば之がよくわかるであろう。