書止めの文言からは下知状ともいえる寺院の下文

先に述べた下知状は、悉く鎌倉幕府以来武家に関するもののみであり、今ここに附記した異式の下知状も又武家に関するものであった。然らば下知状は、悉く武家に限るかと云うに、必しも左様では無かった。寺院からも夙(はや)く之を出していた実例がある。

第二種 寺院下知状

部類〔一五九〕に挙げた文書は、天喜四年四月十一日、東大寺から同寺領大和玉井庄に、加茂祭幣齋料に関して出した下文の草案であるが、本文の書止めが、「下知如件、故下」とある。前述した下知状の書止めと相通ずる点がある。而して書出しは下文式であり、丁度下知状の中の第一種即ち書出しに「下」とあるものとよく似ている。唯差出者の位署が、これは上段の署判であり、彼は下段の署判の相違がある。右はこの種形式の初見であるが、之に次いで治承二年三月十一日、房宮上座大法師から出した下文、(東大寺文書第二回採訪五)、又平治元年閏五月日、東大寺公文所の下文、(同文書第二回採訪一)、も同じ形式を具えている。この書止めの例文から云えば、此等の下文は、又下知状とも云い得るであろう。とのことです。