第二式 奥上署判下文変形文書
第一種 下知状・御教書
東寺雑掌光信申播磨国矢野庄例名内那波浦并佐方浦領家職事、
右、彼地者、去正和二年十二月七日、後宇多院御寄附當寺以来、帯文保元年十月日
院庁下文、正中三年三月十八日官符宣、建武三年十二月八日院宣等知行無相違之處
、自暦応三年、那波浦地頭海老名源三郎、佐方浦半分地頭七澤左衛門太郎等押領之
由、就訴申、為布施弾正忠資連奉行、数ヶ度成召符訖、爰如神澤六郎左衛門尉秀信
、粟生田又次郎行時今年三月廿三日両通請文者、企参洛可明申之由、雖加催促、不
及請文散状云々 起請詞載之 者、背度々催促、不参之條、無理所致歟、然則任惣庄
例、可全雑掌所務、次押領咎事、可収公所帯五分一、次押領以後得分物事、可糺返
之状、下知如件、
貞和五年閏六月廿七日
左兵衛督源朝臣(直義)(花押)
この文書は、足利直義が、東寺雑掌光信から同寺領播磨矢野庄例名内那波浦并に佐方浦の地頭の押妨を訴えた訴訟を裁許する為めに出したものである。地頭海老名源三郎、七澤左衛門太郎は、訴訟に依り召符即ち召喚状を受けたが、参洛するよしの返事も奉らないが、それは無理のあるが為めに出頭しないであろうと云うことに定まり、雑掌方の勝訴に帰し、雑掌の年貢取立を全くせしめ、又地頭の押領の咎として財産の五分一を没収し、押領以後の収納物は返却するようにと裁定したのである。
この文書の形式は、冒頭に先づ文書に表さんとする要項を書き而して本文に及んでいる。始めに下云々と書くのを略したものとも見られるが、又前項に挙げた下知状が、奉書の形式をとらず、直接出す形式に変ったものとも見られる。とのことです。