位署が日附の次行と日下では違いがある

先の文書は徳川家康から、軍勢が三河国小坂井八幡宮に対して濫妨狼藉を致すこと、境内の竹木を伐採すること、同宮に放火すること、以上三箇条を禁止する旨を示す為めに下したものである。前にも屡述べた禁制という文書は、かくの如く禁止事項を広く示す為めに作った文書である。禁制の外に制札若くは高札とも称した。

後の文書は、織田信長から、美濃国加納の市場に移り居住せる商人に、信長の領分内に於て、彼等が往来するに当り、何等諸役をとること無く、又借銭借米其外の諸役を一切免除し、商人の往来に対して課税を取りし諸役を収むる特権を、旧来から相伝して来た者も、加納の商人に対しては、それを及ぼすことを停めること、市場に於ける取引に対する課税は無きものとし、取引する人員を特定の者に限ることなく、自由に商の取引を行わしむること、加納の市場に於て、値段の穏かな取極めをせず、一方の云い値で取引をなし、喧嘩口論があっても、それを制裁する者は入るべからず、又市に宿泊して無理なことを申懸けざることの三箇条を示したものである。之は禁止事項とは限らず、遵守すべき事項を示したものであるから、禁制と云わず掟書と称した方が穏当である。

この両通の書式が前項のものと異る点は、差出者の位署が、日附の下即ち日下にあることである。同様に下部に加えてあっても、日附の次行と日下とでは区別があったように思われる。とのことです。