御教書というも、国宣というも、書式は全く同様

 ろ 鎮守大将軍御教書

北畠顕家は前に説いた袖判のある国宣を出しているが、その後鎮守大将軍として〔三四四〕に示した如き、袖判を加えた奉書を出している。延元元年八月六日、南部政長に京都の戦況を告げ、糠部郡内の鎮撫を命じたものである。この後顕家は国宣を出しているが、軍事に関したものに鎮守大将軍の仰せとして奉書を書かしめていたようにも思われる。御教書と云うも国宣と云うも、その書式に於いては全く同様であった。とのことです。