聖護院准后満意の安堵の書状

〔三九五〕は、寛正六年四月十四日、聖護院准后満意が、弁僧都と申す者に甲斐国の武田、辺見、跡部諸氏の熊野参詣先達職を安堵するために出した、安堵の書状とも云うべきもの、〔三九六〕は、天正の初頭、同じく聖護院門跡である准后道澄が、勝仙院に周防秋穂庄の年貢半分の内五石を給分として充行った充行状とも呼ぶべきものである。これには年号が付かず、後に説く武家の御内書とおなじような書式となっている。とのことです。