〔五〇〇〕は、右の伝馬の印の半分を捺した手形の初見のものである。本文書出しのところに左半の印が捺してある。即ち江戸の秀忠の許から発した手形である。
〔五〇一〕は、永禄七年五月廿六日、武田信玄が甲斐都留郡内の小山田弥三郎に、本意で無く他所の主人と契約して召し仕われている同郡内の者は、武田家の領分内に於いてはその現在の主人に交渉して、之を召し返すことのできる掟を伝える為に出した文書である。即ち当時行われていた人返しの命令である。或る土地の住人が勝手に他の土地へ移っては、その土地の知行主が困るので、なるべく住人をその土地に止まらせる方策を講じていたのである。広く云えば人口の移動に対して制限を加えて統制を図っていたのである。とのことです。