三河国の一向宗一揆

〔五一五〕は、同じく福徳の朱印を捺した印判状の一例で、天正十一年十二月丗日、徳川家康が石川日向守家成の母妙西に、家康の領内に於いて一向宗徒再興を許せる旨を伝えたものである。永禄六年から同七年にかけて、三河国一向宗一揆が起こり、大いに家康を苦しめたのであるが、永禄七年、宗徒が家康の軍門に降ってから、同宗は禁絶せられていた。とのことです。