更にこの部類に入る印判状には、物事或いは物の分量を条書に表した内容のものもある。〔五三二〕に挙げたのはその一例で、天正八年七月廿六日、越後の上杉景勝が、その家臣宇野民部少輔に知行を充行うために出したものである。〔五三三〕は、前掲〔図版第一五四〕に挙げた秀吉の知行充行の朱印状の中に、知行高の内容を細かく示した目録別紙にありと見える別紙の類に入る文書である。秀吉が山城国の検地を行って、更めて社寺に知行を寄附するために出した朱印状に副えた目録も多く伝わっているが、之は天正十六年閏五月十五日、秀吉が加藤清正に肥後国の内十七万五千石を充行った時の朱印目録である。当時は充行の朱印状に、別紙目録を添えて下すのも一の規式であった。大量の知行充行は大体かような形式をとっていたのである。とのことです。