終りにこの書式の中本文書止めに「恐惶謹言」と書いたものに〔五八二〕の如きがある。之は(天正九年)二月廿三日、武田勝頼が祖父信虎の七年忌の仏事を修せんとし、これが導師として信濃岩村田龍雲寺の北高(全祝)を招いたのであるが、その病気のため参府出来ないことを聞き、その病状を見舞うために出した書状である。北高は信玄から厚い帰依を受けた僧侶であったから、勝頼も之に至極の敬意を払い、かくの如き書止めの文言と、また上所、脇付を付け鄭重な書礼を表したのであるが、如何せん手に病むところあって、花押を書くことができず、朱印を捺したのである。その印文は「晴信」とあり、重郭のものであった。之は病のために止むを得ず印を捺した書状の一例に挙げることができる。とのことです。