海外関係の文書に早くから印を用いていた西国地方の諸大名

琉球に於いては、これを証拠として船籍の確実なるものと見とめて、安心して貿易を許したのである。この種の文書は義久よりも数代前、忠昌の時延徳年間に出したものが、島津家の旧記雑録に収めてある。それには、「忠昌」の二字を印文とした朱印が捺してある。義久はこの印に倣って前記の朱印を作ったものと思われる。かの朝鮮の李朝から、西国地方の諸大名が、彼国と貿易のために差送る船舶使人の証左として出す書状に捺すべき印として授かった図書、右の忠昌、義久と同様、図書を受けた人の実名を印文とするものであた。従って忠昌、義久の印はこの図書と関係があって作ったものと推測することができるであろう。因みにこの図書の系統を引く印は、対馬の宗家に於いては、江戸時代に於いても用いていたのである。西国地方の諸大名はかかる海外関係の文書には、早くから印を用いていたが、領内に出す文書には之を用いなかったのである。これは既に述べたように、東国地方の大名が印を用いた事情と大いに趣を異にしている。とのことです。