院政時には文殿、親政時には記録所

次いで院政が行われると、この機関が文殿と呼ばれ、御親政の折には記録所と呼ばれるに至ったのである。

〔六一三〕に挙げたのは、後醍醐天皇の御代、嘉暦元年八月九日、記録所の諸官が、左大史小槻匡遠と侍従信親との備中国新見庄に関する訴訟を注進せるもの、参考として挙げた文書は、この注進に依って、匡遠の勝訴となり、その裁許の綸旨として下されたものである。〔六一四〕は同じく建武元年七月廿日、当時雑掌と小野氏女と云う者との京都梅小路室町敷地の訴訟に関する注進状である。両者文書の差出所の書式に相違があり、後者は前掲の文殿の勘奏と同じ形式をとっている。とのことです。