文永十一年蒙古襲来の際に対馬島佐須浦で名誉の討死を遂げた久禰資定

次に〔六三三〕は延慶四年六月、対馬島久禰定能と申す人が、同島守護代に所領久禰在家等に関する従来の下文が焼失したので、更に安堵の下文を申請うために上った申状、即ちこれも又安堵の申状である。之に対して、守護代が外題に安堵すべき旨を記して、本人に下したのである。定能の親父資定が、文永十一年蒙古襲来の時、同島佐須浦で名誉の討死を遂げたことが見えている。とのことです。