右二通は、奉行人に披露を請う形式を有し、書札式に鄭重に書いてあるが、単に人名を連ねて、馳参った人数を報告している形式のものもある。即ち〔六八七〕に挙げたのはその一例である。元弘三年六月七日、信濃国御家人市河助房代助泰が、新田義貞の許に馳参って差し上げた着到状で、奥に義貞の証判が加えてある。料紙は折紙を用いている。
吉野時代以後になると着到状と軍忠状と両様のものが一通に合さった形式の文書も生じて来た。〔六八八〕は其一例、応永廿四年正月、常陸の石河基国が出した、かの上杉禅秀(氏範)合戦の時の着到状である。形式から云えば着到状、内容から見れば軍忠状と云い得る。又便宜着到軍忠状と呼んでも差支えないであろう。とのことです。