五月十一日に御方に馳参るとは、義貞が北条氏討伐のために上野国に義兵を挙げて武蔵へと南進して来たその軍勢に参加したことをいう。尋で十五日の武蔵府中の南方分倍ケ原の合戦、それから鎌倉に討入り、同地の前浜一向堂の前で奮戦した軍忠を注進するために、この文書を進めたのである。
右の軍忠状に見える頸壹を分捕り見参に入るとは、敵の一人の頸を討捕って大将の実検に供えたということである。敵を仆すとその首を討捕り、然もそれを持参して大将の実検に供える慣習であった。蒙古襲来合戦の時にも、我が将士は頻りに分捕の功名を挙げている。一つの合戦が終わると随時頸実検を行った。然し時によっては切棄の法と云い、切棄てたままで頸を持参せずとも差支えないという触の出ていることもある。とのことです。