軍忠状は鎌倉時代には現れず元弘一統の合戦から現れ吉野時代のものが最も多い

正しく軍忠状と認め得るものは、鎌倉時代には現れていない。元弘一統の合戦から現れ、吉野時代のものが最も多い。室町時代中期以前に於いては、前記二種の中、日記体のものが多く、中期以後に於いては、殆ど一の合戦に於ける軍功を詳細に記したもの計りである。

前掲の図版に示したものは、日記体のものの部に入る。なおこの部類に入るものに、左の如き軍忠状がある。

(略)

この軍忠状は、和泉国御家人和田助康が、楠木正成の軍に参加し、建武二年十一月賊軍が関東から上洛せる時の合戦以下、翌年二月、京洛より摂津に逃れ下りし賊軍を追討した迄、并に元弘三年冬に紀伊飯森城攻撃に従軍した時の軍功を注進したものである。日にかけて詳記してある。奥に正成が鄭重な文言を加えて証判を下している。正成の証判を加えた軍忠状は、之が唯一無二のもので、実に貴重な資料と申すべき文書である。とのことです。