〔六九三〕は、降って応仁二年五月八日、安芸の毛利豊元が、京都北小路烏丸に於ける軍功を注進したもの、合戦太刀当注文と書いてある。証判は東軍の大将細川勝元の加えたものである。〔六九四〕は、永禄六年吉川元春が、出雲島根軍白鹿要害并に熊野表に於いて、尼子勢と戦った時の軍功を、毛利元就の許に注進したものである。三箇日の合戦に於ける戦功を注記したもので、当時之を軍忠状と称している。袖に元就が証判を加えている。
次に〔六九五〕は、慶長五年八月廿四日、伊勢国津城合戦に於いて討ち取りし頸の数を注進せるもの、之を頸注文と云う。頸の数の下に名を書いてある人が、この頸を討ち取ったのである。毛利家文書の中には、天文年間からこの関ケ原合戦の間の頸注文が多く伝わっている。とのことです。