御料紙の切紙は、蓋し吉野山中御艱苦の間に御意のままに之を得させ給わなかったに依るものと拝し奉る。なおこの勅願文を納められたのは、高野山の勢力を頼ませられ、これを招く思し召しのあったことにも依るであろう。日下に天子と、その下に御諱を書かせられ、然も全文宸翰を染めさせられ、御祈請の御熱意の程を拝察するに餘りある。特に天子と書せられたのは、京都を御退きの後は、世に或いは御退位遊ばされたものと思う者があるかと御懸念遊ばされ、殊更その御在位を示させらるるためであると説いた人がある。然し之は大宝令の儀制令義解に、天子の文字は祭祀に称するところとある条を解釈して、神祇に告げらるる時称して天子と為すとあるから、この義解の文に依らせられたものと拝察し奉る。之に依って天皇が、右の如く御懸念あらせられたと推察するのは、蓋しこの御願書の真意を得たものでは無い。かかる御艱苦の間にも古の制規のままに御祈願文を書せられたところに、聖慮を拝し奉るべきである。とのことです。